第245期 #9
ふとしたはずみで、死んだ女の部屋に寝泊まりすることになった。
中学の同級生の矢崎から突然の連絡があり、飲まないかと誘いかけるので、こちらは抗鬱剤の厄介になっていて禁酒なんだと、いったんは断ったものの、相手の言葉には露骨な威嚇が感じられ、結局は応諾していた。好奇心もあった。いじめられっ子の矢崎の顔立ちはよく覚えていて、あのひ弱な餓鬼がどういう料簡でこちらを脅かすか、という怒りもあった。
居酒屋に現れた矢崎を見て、得心がいったものだ。五十がらみの金髪男が店内を睨めつけ、筋肉の張った肩を揺すり近づいてきた時、その暴力団風の、いや、明らかにその筋の男が、矢崎だとすぐに分かった。目の奥の怯えた光が変わっていなかった。その光がこちらに近づき、正面に居座った時、相手の唇の隙間からおのずと溜息がもれた。頼みがあるんだ、と、挨拶も前置きもなく矢崎は言った。疲れた声だった。
そこから案内されたのがこの部屋というわけだった。神田川沿いの古いアパートとは思えないほど小奇麗だった。一週間だけでいい。むろん出勤の間は不在にしていい。調度品は自由に使え。電話にもインターフォンの呼び出しにも出るな。一週間後に出る時、鍵は川に捨てろ。
何だ、何のアリバイ工作なんだ、と訊くと、矢崎は半笑いを浮かべ、女、とだけ言った。
それが三日前のことだった。依頼にどういう意味があるかは分からなかった。匂いはあった。甘酸っぱい柑橘系の香水の匂い、それからその奥にある、女の肌の、汗ばんだ、かすかに生臭い匂いに嗅覚が届いた。飯を食ったりテレビを見たりしている間、その獣の仔のような匂いの立つ女の身体が、確かに傍らに横たわっていた。
毎夜午前二時、必ず物音に目を覚ました。録画予約をしていたビデオ・レコーダーが作動するのだ。その律儀な機会が45分後に止まるまでの間が、女の気配のもっとも濃く感じられる時間だった。
何故殺される破目になどなった、と尋ねてみたかった。声に出して訊いたことも一度だけあった。かえって静けさが色濃くなった。何て寂しいんだ、と身震いした。その癖、明け方にはもう、翌日の午前二時を待望していた。
一週間後、部屋を出て鍵を川に捨てた時、ポケットには前日に作った合鍵を入れていた。この先、使う機会があるかどうかはどうでもよかった。今はダウンジャケットのポケットに入っている。定期入れを出すたびに、鍵は鈴のように鳴る。