第239期 #9

ミュージック

 放課後に寝落ちして、気づいたら誰もいなかった。窓の向こうには茜色。慌ててよだれを拭うも特に慌てる必要はなく。家帰るの面倒くさいなと思いながら教室を出る。人気のない廊下、どの部屋も明かりはついてない。まだ下校時刻じゃないはずだけど。いつも聞こえる運動部の掛け声もなくて、私が寝てる間に世界終わった? とか馬鹿げた妄想。階段を下りる。
 三階の音楽室からハーモニカの音が聞こえ、少しほっとする。光を求める夜虫のように吸い寄せられていく。音が橙色をしている。
 音楽室に入るのは初めてだった。入口が二重で、扉はどちらも中途半端に開いている。奥の扉から、ぴょんと緑色の塊が飛び出す。蛙。蛙だ。音楽室って蛙がいるの? 蛙は私を見てから、くるりと向きをかえて奥に跳ねた。
 二つ目の扉を引くと同時にギターが鳴った。視界が開ける。空が見える。上の階があるはずなのに。夕焼けからのグラデーション、もこもこした雲が浮かんで、ぬるい風が生い茂る草木の匂いを運んできて、完全に外だ。どっかの山だ。バスの待合所みたいな小屋で、男子生徒がひとり座ってギターを弾いている。トタン屋根の下、顔が陰になっていて見えない。彼が口を開く。
 歌が始まる。キーの高い、ところどころ不安定さの滲む声。急に空が翳りぽつぽつと雨が降り始め、やがて土砂降り、足元の土がぬかるんで、水溜まりは嵩を増していく。私はびしょ濡れになりながら、彼の歌声から、演奏から、耳を、目をそらすことができない。降りこむ雨に頭から水を滴らせ、脚が半分水溜まりに沈んでも歌い続ける。
 サビ。
 私は蛙で、オタマジャクシで、同時にもっと小さなミジンコみたいな存在で、水溜りの泥のなかで泳いでいた。何を考えるでもなく、思うでもなく、ただ生きていた。私の触手が何かに当たる。固い。割れて、なかから白い芽が伸び始める。種だ。大きな丸い葉が私の上に次から次へと広がる。葉の隙間から、光の束が泥のなかに差しこむ。私は水面に顔を出す。温かい、光の雨を浴びるために。

 その日は興奮して逃げるように帰った。そのことを今も後悔している。音楽室前で出待ちみたいなこともしたけど、あの日歌っていた彼とは二度と会えなかった。友達からは夢だと笑われた。
 それから私はバイト代でギターとハーモニカを買って、あのとき聞いた曲を、もう十年も弾き続けている。今日は空が見えるかもしれない。もし見えたら教えてほしい。



Copyright © 2022 Y.田中 崖 / 編集: 短編