第239期 #10

朝が来る

 枝葉の間から覗く空に青みが差し、暗闇に沈み澱んでいた空気中の粒子が微かに動く。呼応して、思い思いの位置を占める草葉が僅かに身じろぎをする。その一角、空よりは地表に近い楢の葉の裏で、羽化したばかりの蝶が羽ばたいた。まだ飛びはしない。これから乾きを知るであろう柔らかな翅は、水に浸した小指が作る波紋のような風を一筋だけ起こす。次いで口吻と脚が動き、身体と外界のありようを確かめると、再び息を潜める。

 楢の枝先に身を寄せる冬芽の隙間に産み付けられた扁平な卵は、楢に守られて厳冬を凌ぎ、楢の芽吹きと共に孵った。得体の知れない巨大な物質と力の循環の末端に芽吹いた葉を、生まれたばかりの青虫は必死に食べた。葉は鋸歯を展げるにつれ硬く不味くなり、青虫の仲間のいくらかは楢の防御に敗れ弱り死んでいった。毎日のように雀(カラ)の類が葉の茂る枝枝にやって来、多くの仲間は食べられていった。数回の脱皮の後に蛹になり、羽化に成功したのはほとんど奇跡で、なかにはいつ襲われたのか、中身をすっかり食い尽くし肥えた艶やかな寄生蜂が這い出てくる蛹もあった。
 今は盛夏の始まりにあった。

 楢の枝先に集まる葉が揺れる。蝶が再び羽を動かす。既に翅は外界に馴染んでいた。大きく開いた小さな翅は翡翠色。何度も羽ばたき、やがて確信を得たかのように舞い上がる。枝葉の暗い蔭から見上げる空は青い。蝶は楢の樹冠に向かって上昇する。枝葉の随所に張り巡らされた、いつか囚われるのであろう蜘蛛の巣をひとつずつかわし、はらはらと危うげに揺らめきながら、より朝に近いほうへ。

 不意に複眼が仲間を見出し、動揺した蝶は姿勢を乱す。百分の一程の生存率で羽化を果たした雄同士の邂逅だった。大きく羽ばたく小さな翅は翡翠色。この場合の仲間とは敵を意味した。縄張りを主張して、二匹は楢の枝葉の間を上へ下へと飛び回り、離れ、近づき、交錯する。

 遠い山並みから朝暘が昇る。水平に差した光が楢の葉を透かし、あるいは間隙を通過して蝶たちに届く。蝶の翅は陽射しを受けて光沢を帯びた色彩を放つ。仄かに赤い光の中で、青とも緑ともつかない煌めきがふたつ。はらはらと揺らぎながら踊るように、遠く近く、上へ下へ。

 その営みは一帯で繰り広げられる。やがて興奮が極まり昂った蝶たちは林冠から飛び出して舞う。白波が小さく跳ねるように、あるいは火の粉が散るように、山々の至る所で翡翠に似た光が閃いた。



Copyright © 2022 霧野楢人 / 編集: 短編