第238期 #8

ダンス・ステップ

 こっち、と君が手を引いて、ショッピングモールで誰もいない通路に私を連れていく。こんなところに階段あったんだ、私の独り言も聞こえていないのか、君は満面の笑みで上り始める。踊り場まで行ったら振り返って私を呼んで、おっかなびっくり下ろうとする。私は慌てて抱き上げる。この階段は上りだけ。下ることはできないんだよ。

 君はふらふら自転車を漕いでいる。補助輪が取れるまで帰らない、と唇を突き出す。何度も転んでようやく乗れたら、次の踊り場では鉄棒の逆上がり。次の踊り場ではピアノのソナタ。できたできた! と喜んで、一段飛ばしで階段を駆け上がる。私は重い足を上げて、君の後をついていく。

 君が涙を流している。目を真っ赤にして、声を出すまいと唇を噛んで、ずたずたに切り裂かれた画用紙を両手でぎゅっと掴んで。そこに描かれているのは、君の両親だろうか、友達だろうか、はたまた片想いの相手だろうか。下っていった人とは二度と会えないから、ついて行ってはいけないよ。この階段は上りだけ。

 君は踊り場で本に埋もれている。推理小説、冒険小説、歴史小説にファンタジー。暗い部屋で読むと目に悪い、と言っても聞かずに眼鏡をかける。君は授業用とは別にノートを一冊持っていて、そこに君だけの文章を綴る。そうして、一段ずつ確かめるように階段を上る。

 君が、ぴんと背筋を伸ばして階段を上がっていく。紅を差した唇で微笑んで、踊り場でターンする。ふんわり広がる、真っ赤なドレスの裾。時に鋭く、時にやわらかい言葉を紡ぎ、君は毎晩誰かと踊る。私は階段の途中で腰を下ろして、踊り場の君を見上げる。君は気まぐれに私に話しかける。どうして上がってこないの? 大丈夫、ゆっくり行くよ。心配することは何もない。この階段は上りだけ。

 ようやく追いついた踊り場で、君が恋人を紹介する。私は祝福し、手を取り合って階段を上っていく二人の背を見つめる。私の次の踊り場で、痩せた私が管で繋がれ、ベッドに横たわっている。恐ろしくても下りることはできない。
 君が上階から見下ろす。大丈夫、こんなことは、何でもないことなんだ。君はもっと階段を上って、美しい景色を見、温かな人びとと出会い、素晴らしい作品に触れ、君という存在を謳歌する。君は私とは踊らない。

 重力から解放されて、私は久しぶりにステップを踏む。裸足の足裏に感触はない。白装束を揺らしながら、ゆっくりと階段を下りていく。



Copyright © 2022 Y.田中 崖 / 編集: 短編