第238期 #3

高嶺ヶ原

 前方の稜線を越えた霧は崖を駆け下り、瞬く間に高原を覆っていった。振り返れば下方の湖沼群はもう見えない。熊を主とする危険物を警戒する仕事も、これでは殆ど意味がなかった。保全対象である登山道の利用者を無線で尋ねると、無しとの回答が管理棟から返ってきた。高原の低木林から顔を出す巨石の上で、僕は望遠鏡の三脚に触れないよう慎重に、大きく伸びをした。
 水筒に入れてきた紅茶を飲み、ビスケットと魚肉ソーセージを食べた。大学のゼミをちょろっと覗いてから、山に戻って四日目。沢音が日夜絶えない宿舎で寝て起き、早朝の登山道を定点まで登る日々。新鮮な食材を食い尽くした僕に、昼飯を工夫する粋な心得はない。ノゴマの澄んださえずりが近くから聞こえるので見回すと、十メートルほど先の枝に止まっている赤い喉が辛うじて見えた。
 一向に霧は晴れない。こういうとき、僕はこっそり小説を読む。ザックに忍ばせてきた文庫だ。万年雪をわたってくる風は冷たく、手は冷えるし紙も湿るしそもそもバレたら怒られるのだが、それでも贅沢がしたい。可視範囲の物影には気を配り、ベビーカルパスを齧り、ページを繰る。時々、崖からの落石が崖錐地を転がる不穏な音が聞こえてくる。反響が高原の広さを暗示する。僕は笑ってしまうくらいちっぽけだ。
 下界からの解放、と言いたいところだが、昨日は思わぬ来客があった。同じ大学の後輩で、卒業研究のための視察に来たのだとか。彼のことは知らなかったが、彼がいる研究室は知っていた。
「院生の保科っていう先輩が、よろしくって言ってましたよ」
 業務を終えてから、僕と彼は宿舎の隣にある温泉に入って話をした。今思えば、やめておいた方が良かったかもしれない。
「お知り合いなんですか?」
「基礎クラスが一緒で、学部生の頃仲が良かったんだ」
 それで去年告白して振られた。休学を決め、電波が届かないこのバイトを始めて、やっと彼女のことを考えずに済むと思っていたのに。
「美人ですよね。僕にとっては憧れって感じで」
 露天風呂の湯煙を揺らし、彼は照れ臭そうに笑った。まあ、あいつ彼氏いるんだけどな。
「最近会ってないんだ。元気にしてるかな」
「元気そうですよ」
「そうか、よかった」
 入山者三名との無線が入り、僕はいったん本に栞を挟んだ。
 出所の知れないどこか遠くで鹿が二、三鳴いた。短く鋭い鹿の声は、山肌にぶつかって高原の一帯に響き渡り、文字通り霧散した。



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