第236期 #2

怒りの壺

 人間の怒りはどんなに激しくても、6秒ほどしか持続しないらしい。俺は6秒の2乗の36秒だって持続する。だから職場では孤立するし、その他ありとあらゆる所で孤立する。家族も離れ、最近はインターネットさえ俺を弾き、酒の量が増え、体重が増え、人間関係は消失した。
 と、立ち飲み屋で横にいた男にべろべろで話したら、男から壺を買うことになった。134200円。泥酔していても高いなと思ったが、買ってみると安すぎるくらいだった。

 壺に顔を突っ込んで怒鳴り散らす。すると、スッキリ、喉の奥から、何かどす黒いものが引きずり出されて、壺の中に入る。気持ちが晴れ晴れとして、思わず1時間早く出社したりする。元妻はまだ会ってくれないが、月1回会える娘からは「パパ変わったね」と言われる。俺の怒りを燃やす火も油も俺の内にあり、それは夜のうちに壺に収められるのだ。
 ふと壺の中を覗いた。部屋の端に置いた壺の中は暗く、よく見えない。顔を近づけ、目を凝らすと、黒々としたコールタールのようなものが揺れた。

 頬に絆創膏を貼った娘を問い詰めると「ママの彼氏に殴られた」と言ってうつむいた。俺の中にゆらめくような怒りが芽生えた。かつて俺の怒りは爆弾だった。しかし、何を聞いても要領を得ない子供の話を聞いても、もう声を荒げたりしない。冷静に目標を定め、震えていた。

「出てって」「いや、その」
 俺が殴った男は逆に妻……元妻をなだめていて、元妻の怒りは俺一人に向けられている。
「美月、この人に何言ったの?」
 娘は俯いたままだ。
「あなたを殴ったのは、あなたの彼氏でしょ」
 元妻は俺を見ずに言った。
「まだいたの? 関係ない人は帰って」

 服を着替え、洗濯物を取り込み、テレビをつけ、帰りに買ったビールを、そのまま床に叩きつけた。
 何で、俺が! 俺は……!
 叫び出しそうになるのをぐっとこらえて、壺の所に行く。壺の口を両手で掴み、顔を寄せた。
 壺の中には真っ黒な俺の怒りが渦巻いていた。
 叫ぶのをやめ、俺は壺を持ち上げた。重い。抱えるようにして、そのまま玄関へ。
 ぶちまけてやる。そう呟くと、心がスッと軽くなって、消えた。懐かしい感覚。
 そのとき、手が滑った。壺は、地面に叩きつけられ、俺が思わず目を瞑り、開けたときには、砕けた壺の欠片が地面に散らばっていた。
 プァンっと車のクラクションが鳴り、また走り去っていく音がした。それきり、また静かになった。



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