第232期 #9

会社のトイレの窓が低い

 会社のトイレの窓が低い。いや、それだけの話。

 窓は一番奥の壁にある。片側を押して開けるタイプの窓で、高さが2m、幅が90cmくらいある。でかい。全開した窓に、腕をクロスしたままスッと消える自分を妄想する。4Fなので死ぬ。
 この窓の高さが、俺の腰の下くらいしかない。いつも用を足した後、恐る恐る下を覗いて、体の真ん中がひやっとしてやめる。
 俺は思う。
 この窓は魅力的すぎる。
 表面張力ギリギリの人に、最後の一押しがあったとき、例えば、先っぽがくっついてあらぬ方向に飛んだおしっこが足にかかったときとか、おちんちんをしまった後に残尿がパンツと太ももを濡らしたとき、この窓はどう映る? 俺は心配になる。
 誰かに話したいけれど、この危機感はあんまり理解されない気がして、逆に理解できる人には伝えてはいけない気がして、ずっと言えないでいた。

 それが飲み会で口をすべらせてしまい、次の日に同僚の林田が、わざわざトイレを見に来た。
「これですか。確かに雰囲気ありますね」
「下の階も同じだろ」
「いや、これはなんか、違う気が」
 林田はじっと窓を見ている。俺は何だか、まずい気持ちになった。
 もういいだろと切り上げようとして、
「これは扉ですよ」
 確かに、林田はそう言ったと思う。気づいたら、助走をつけてジャンプした林田が腕をクロスしたまま窓に飛び込んでいた。
 俺の心臓の音が突然、バクバクと鳴りだして、他の音が消えた。
 落ちた?
 窓には光が満ちていた。眩しい。マジか。そこは、『外』か?
 扉なら、今度は高すぎるな。
 俺は、思い切り床を蹴ろうと、足に力を込めたところで、グイッと腕を掴まれて、バランスを崩し後ろに倒れた。
「何やってんですか!」
 ブワッと一気に感覚が戻った。窓から吹く風、窓の外のビルの外壁の色と、車の音。冷たい床の質感。
 俺を見下ろすのは同じ部署の同僚。
「林田さん、何やってんですか」
「窓から飛び降りたんだ」
「誰が?」
 林田が。
 いや、林田は俺か。
 もうおしっこ止まりましたよと言って同僚は俺を立たせ、そのまま俺を課長の所に連れて行く。俺はそのまま年休を取り、次の日に病院に行った。ただ月曜日には出社して、それからは普通に仕事をしている。

 今でもトイレに行くとやはり、まだ手すりも何にもついてない、あの窓を見る。
 あの窓がもう一度。
 俺の前で開いたら。
 俺はどうなってしまうのだろう、と他人事のように思う。



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