第22期 #13
わからないことをわからないままにしておくのが、いけないことだとはわたしにはどうしても思えないので、本にかじりつくようにして歴史を頭につめたり、それができたとなったらどうにか証明してみせようとするような、さみしいことはするまい。からだに染みる、予測しない何かやときに汚れた何かを、それだからと排斥することもするまい。考えたり、生み出したりするために、わたしができることをその限り行う、からだの反射の望むとおり、あるがままでありたい。
わたしの指先が、毛足の長い画用紙に触れて喜ぶようにざわめくとき、背中や膝の裏の薄い皮膚が共に震える。しかし筆を指に握り、平らな紙を目の前にすると、突然その表面に届くことはできないと思い知ってしまったかのような、厚く見えないへだてを感じる。いっそ何も描けなくとも、黄色の混ざったワトソンのざらざらで、指の腹を擦り、手の甲を擦りし、それまでそこになかった何かを撫でてこどもの丸い頬をつくりだし、しかし一度目を瞬けば、手のひらに確かに触れたその頬が消えてしまう、その空寒いかなしさを覚えてゆくほうが、この心が静まりはしないだろうかとも思う。それでも、わたしは筆を持ち、その穂先の行き先を全身で探し続けねばならない。
わたしの手がその扁平なひと区画へと伸びるそのことを、わたしはわたしの中にのみ留めてはおけないからだ。わたしの立つ足のうら、二足ぶんの床でのみこの世界と繋がった、塩橋の向こう、枠の中の、わたしのゆめ。
小さなその場所に、鮮やかで素晴らしいゆめを見るほど、わたしは途方に暮れてゆく。伸ばす腕が突き当たると、容易にもわたしは安心してしまい、同時に自分への落胆を感じることになる。その中にあるゆめを、眼球の表面で触れて、見ることができないということが、ひとつの限界でもあるからだ。わたしにはそれは水面ではないので、見つめとおすことも、不安に喚き散らすことも、中で溺れることも、何一つできない。それができる人間を、わたしは羨むしかない。
紙がただ紙であり、喜びが喜びであり、不安が不安であったなら、わたしが余計な理屈や言葉さえ知らず、水面に届かない目さえもまるく澄ませていられたならば、あの枠の中はわからない、希望のようなものが詰まった、夏の空にあってひんやりと漂うような、光りゆめをみる絵画であったのだろうか。