第22期予選時の、#13Antipodes(市川)への投票です(4票)。
今いるところではない場所を、次第次第に画用紙へ浮き上がらせてゆく行為。しかし、描けば描くほど、本来出現しなければならないはずの場所とは違うどこかが生まれてしまう。手を伸ばすほどに遠ざかる目標。描き出そうとする事がそもそも間違いなのか。
自分の感覚をありのままに形にしたい。その過程のもどかしさが素直に伝わる作品でした。
参照用リンク: #date20040608-154649
喜びや悲しみについて、表現することに限らず、もっと広い範囲に当てはめて読めそうでもある。感覚は意識に容易に働きかけてくるが、意識を感覚にフィードバックしようというのは途方も無く難しい試みであり、それで私たちは千字以内の文章を綴るという単純な目的の元に、なんだか大袈裟なことを続けているのだろう。
参照用リンク: #date20040606-014826
今期のイチ押しで、今作に賛嘆した。難解との声もあり、賛否は分かれるだろうか。作品の核にあるのは、絵を描くという手段によって捉えようとする世界=「ゆめ」をあるがままに感受したい、「ゆめ」と自分とを何の媒介もなしに接続してしまいたいという、むしろ素朴な願いではないかと、僕は読んだ。「ゆめ」を「眼球の表面で触れて、見る」とは、その願いの端的な表明だが、もちろん、そんな願いはいつも、「厚く見えないへだて」の前に挫折してしまうしかない。水にまみれるように、「ゆめ」にまみれてしまうことはできない。絵を描くという行為は、その「ゆめ」をとらえようとする行為でもあると同時に、自分と「ゆめ」が隔てられていることを、つねに意識させる行為でもある・・・「それでも、わたしは筆を持ち、その穂先の行き先を全身で探し続けねばならない」。この決意に似た言葉は、力強い。トーンは決して晦渋ではない。ひらがなを多用し、かつそのことに感傷を感じさせない文体は、詩的というよりむしろ童話的で、美しいと思う。触覚的なイメージの追求という意味では、今期の黒木作品(この小説も美しい)に通底しており、興味ぶかい・・・などと、作者の意図に反しているかもしれない勝手な解釈を連ねたけれど、これもひとつの解釈ゆえ、どうぞ許されたし。
参照用リンク: #date20040604-093552