第192期 #9

彼岸の森

 ずっと雨が降り続いていた。ある日の夕暮れ時、帰宅した私を首を吊った母と弟が迎えた。部屋がひどく散らかっていた。母が暴れる弟を無理やり吊ったのだろう。食べカスが散らばるのを嫌ってゴミ箱を抱えながらメロンパンをかじるような弟だった。部屋には汚物の臭いが立ち込めていた。換気のために窓を開けた。雨は上がっていた。西日を受けて煌めく二人はてるてる坊主のようだった。風が吹き込んで風鈴がちりんと鳴った。母を叩くとぴゅうと空気の抜ける音がした。

 二人の葬儀はひっそりと行われた。父は葬儀の費用のことで母をなじり続けた。お前も死ねという言葉は飲み込んだ。
 母は癌になってからというもの、やたらと死にたがっていた。弟はお供に選ばれたのだろう。もう一人送ってやるから待っていろよ。おかしなもので、声に出してみると勇気が湧くのだった。家族に恵まれない子はヒーローを胸に持つことが出来ない。ブレーキは壊れたままだ。

 魔物は血を流さないという伝説になぞらえて獲物はスレッジハンマーに決定なのだ。刃物を使ってもしも血が出てしまったら魔物ではないということになってしまう。それではいけない。それとスコップとビニールシートに花の種も少々。安い買い物だ。父の命は安い。
 穴は予め掘っておいて葉っぱで偽装。追加の種も忘れずに。暴力は老若男女分け隔てなく凛として平等で、死は歓迎されている。
 決行当夜。酒に酔って寝た父の頭を叩いてシートにくるんで車で森へ。血よりも体液のほうが多かったのでギリギリセーフ。人間は意外と死なない。母の努力が窺える。これは生まれて初めて自分の意志でやり遂げた仕事だったのかもしれない。私にはこの世界でやっていくだけの力があるのだ。

 ◆

 墓参りはする気が起きなかったが、父の埋まっている森には頻繁に通うことになった。焦りがあったからだ。
 森は腐葉土と虫の体液の臭いが立ち込めていた。花が咲いている。掘り返せば父が埋まっているはずだった。土の中からシデムシが湧き出した。
『赤黒い太陽が私たちの虹彩の中に落ちてゆき薄暮を飲み込んで魂を夜に捧げるのだ』
 不思議な描写が脳裏を掠めた。記憶を探る。思い出の中の父の書架の片隅の埃の中の腐敗した一冊が音もなく捲れてゆく。煙草の先にしなっていた灰が砕けて落ちた。受け止める物が必要だ。たとえばゴミ箱のような。
 シデムシが私を見ている。私はシデムシを踏みにじって土へ還した。



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