第192期 #10

双眼鏡

 私の体験は、例の怪談とはちょっと違う。登場人物は兄ではなく姉で、姉は閉鎖病棟に入った。その姉に最後に面会したのは、私が高校に入学した年である。
 母方の祖父母の家。バードウォッチングにはまっていた姉は、高校の入学祝いに祖父から双眼鏡をプレゼントされた。姉だけでは不公平だと、私も祖母からゲーム機をそのとき貰った。貰ったその日はあいにくの雨。私は姉といつも遊ぶ二階の部屋にいて、貰ったゲームをしていた。バードウォッチングができなかった姉は、窓から雨に沈む田んぼを双眼鏡で眺めていたと思う。
「あーぁ、つまんない。次、ゲーム代わってよね」
 それが、正常であった姉から聞いた最後の言葉になった。ゲームがクリアできて、私は姉の方を見た。姉の最後の言葉から一〇分は経っていたと思う。
「次、おねーちゃんの番」
 姉は窓の外を見ながらぼーっと、ただ突っ立っている。私が声をかけても反応がない。姉は遠くの田んぼの、ただ一点を凝視しているようだ。姉の視線の先を追ったけれど私には何も見えなかった。それからすぐに、階下の両親に姉がおかしいことを告げた。詳しいことは知らされなかったけれど、その後、姉は入院した。いくら心が崩壊したとしても、親族であるなら許容できると信じていた。けれど、私は姉の言動に慣れることはできなかった。
 私が高校を卒業する頃、両親が離婚して、私は父と暮らすことになった。母は精神を病んだため実家に帰り、私と姉が遊んでいた、あの二階の部屋で療養を始めた。姉に最後に面会したのが高校入学のときであると言ったのは、姉がその後すぐに自殺したからである。心の治療を専門とする病棟で、万全の体制であったはずだ。それでも姉は死んだ。それが原因で、母は精神を病んでしまった。
 月に一回、母に逢うため私が祖父母の家へ行くと、母は決まって遠くの田んぼの一点を凝視していた。姉の形見の双眼鏡を使って、姉の見ていた方向と同じ一点を静かに見つめている。
「何見てるの」
「ううん、探してるのよ」
 そんな母に私は看護専門学校の合格通知を見せ、近況を報告した。

 姉が統合失調症だったことは後になって知った。霊や祟り、怪談の類いに似せて、例えば、姉の発症環境と病状は「くねくね」に酷似している。けれども、私の体験と、その怪談の発端に時間的な合理性はない。「くねくね」は二〇〇三年、2chに書き込まれたのが最初とされる。私は当時三歳だった。



Copyright © 2018 岩西 健治 / 編集: 短編