第189期 #9
選択肢などなかった。満月の青い夜、母は僕を産んですぐにいなくなった。被っていた母の皮を脱いだようなものだ、どうってことない。それから僕は襤褸のように無価値な物を着ると透明に近づけることを知った。だから汚い服を好んで着ている。この性癖のせいで、おかしな姿の人に妙な親近感を覚える。けれども接触しようと思ったことはなかった、これまでは。
職場に小出茉莉という人がいる。小出さんは髪を二つに結ってピンク色の何かで全身を装飾している。この幼児趣味は奇形を騙ったり偶像と同化したりというよりは、自分が可愛いと思える物を身に付けることである種の安寧を得ている、いわばお婆ちゃんのお守りのようだった。小出さんの皮は他者との溝を底上げして埋めるためのものであり、僕の皮とは違う。小出さんは耳にだけ青いイヤリングをしていた。
小出さんと仲良くなると、織田真紀という人物が僕に関わってくるようになった。彼女は社会性と女性らしさとの調和を取った小綺麗な出で立ちで、化粧や声の綺麗な人だった。だからこれが皮だとは思わなかった。このときは話が合ったような気がしていて、はじめて友人と呼べる人物を得ることができるのかもしれないと胸がときめいた。織田さんにあるとき飲みに誘われた。バーで待ち合わせたところ、彼女は毛玉の立ったジャージの上下姿で現れて、汚れた青い眼鏡を掛けていた。今から思えば試し行動なのだけど、そのときの僕はくだらない話題のことで頭がいっぱいで、外見のことなんか気にもかけていなかった。彼女は震える携帯をポケットにしまい込み、青いカクテルに口を付けながら僕から何かを見透かそうとしていた。でもそのときの僕には気が付きようもなかったし、選択肢などなかった。それから僕は織田さんの自宅へ招かれた。小出さんもいるとのこと。けれど社内で二人が会話しているところを見たことはなかった。織田さんの手の中で携帯が震え続けていた。
織田さんの自宅のドアは目の覚めるような青で塗り潰されていた。部屋の明かりは消えていて、けれど電気のメーターは激しく回転していた。やがてドアの鍵は室内側から開けられた。お試しではなく本番を迎えたのだ。僕は合格したのだ。織田さんと小出さんの捌け口として、彼女らに被られる皮として。異物が呼吸をするための皮。闇の中で輪郭を溶け合わせる二つの影。その夜は満月で世界は群青色に沈んでいた。僕には