第189期 #10

正直者の世界

 晴れた日曜日の午後、後藤博は街を歩いていた。
 街は妙に閑散としていた。普段なら人でごった返している街路には、退屈そうな浮浪者が一人座っているだけである。
 ふと、後藤と浮浪者の目が合った。途端に、後藤の頭の中に、あるイメージが浮かび上がった。髭面の浮浪者が、ビールを片手に焼肉を頬張っている姿である。
 それが彼の一番の〈欲望〉だった。後藤の脳がそれを読み取り、イメージが像を結んだのである。
 自らの秘めた〈欲望〉が、他人に伝わってしまうという現象が起こり始めたのは、今から一週間前のことだ。半径五〇メートル以内の人間なら、誰にでも〈欲望〉を読まれてしまう。目を合わせた場合はより確実だった。
 この現象によって、人々の生活は一変した。今や誰もが他人と顔を合わせるのを恐れ、一億総引きこもりの様相を呈している。
 後藤は落胆した様子で溜め息を吐いた。浮浪者の〈欲望〉があまりにも下らなかったからである。しかし、反対に後藤の〈欲望〉を感じ取った浮浪者は、顔を青褪めさせ慌てて逃げていった。
 後藤は苦笑して、他の人間を探した。彼にとって、他人の〈欲望〉を垣間見るのは面白い趣味である。自身のものが伝わるのは構わない。人間の裏側を覗けるなら安いものだ。
 交差点に差し掛かったところで、後藤は交番を見つけた。此処なら人間がいる可能性が高い。案の定、真面目そうな巡査が勤務中だった。
 後藤は「すいません」といきなり交番の中に頭を入れた。反射的に顔を上げた巡査と目が合う。瞬く間に、〈欲望〉を知った巡査の額に油汗が浮いた。目を見開き、後藤を凝視している。巡査は咄嗟に拳銃を引き抜き、後藤に突きつけた。
 後藤はそれにも動じず、薄ら笑いを浮かべながら、言った。
「……まだ、僕は何もしてませんよ。ただ、やってみたいと考えてるだけです」
 巡査の引き金にかかった指はブルブルと震えていた。だが、その顔はどこか引き攣ったような笑みを浮かべている。後藤は銃口を見つめていたが、やがて肩を竦めて、
「止めておきましょう。まだ、駄目ですよ。僕も、貴方も」
 そう言い残して、あっさりと踵を返して交番から出て行った。
 巡査はどっかりと椅子に腰を落とすと、肺に溜めていた空気を大きく吐きだした。血走った目を瞑り、何度も深呼吸をする。だが、絶えず指は拳銃を弄くっていた。
そうして落ち着くのを待ちながら、彼はふっと呟いた。
「……惜しかったなあ」



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