第183期 #14

その日も、女は倒れるくらい働いた

 女の仕事場には、「日々汝を完全に新たにせよ」ということばが、壁一面にひろがるほどの模造紙に巨大な筆で書かれていた。その墨字は、とにかくヘタクソであった。習字のおぼえがまったくない女の夫が、或る日、仕事場に届けてきたのである。夫がかいたものであった。

 女は仕事を始めるまえに、まず、たったひとつしかないデスクの回転椅子からふりむいて、壁一面のこの言葉を眺める。夫の字は、ほんとうにヘタクソだなあ、と思うのだった。女はこの言葉をいったのが、アメリカの思想家・ソローだったことを知らなかった。夫の言葉にしてはなかなかいいなと思っていた。

 女は夫の「巨大好き」について、まだ二人とも学生だったころからいつも一緒にいた関係ではあっても、なかなか理解できなかった。なんでも「巨大」を追い求める夫の思考には目的がなかった。ただ「巨大」が好きで、「巨大」でなければ、意地になって大きくしようとした。結婚したあとも、本来は二人でデザイン会社を運営し、一生懸命は働いて子供をたくさん産んで、大きな家をたてたいと思っていた女は、その夢は夢にさえなりえないことにすぐに気がついた。生きて、生活していくことより巨大なヤカンをつくったり巨大な鍋をつくりつづけていくことだけに夢中になる人間がいるのだ。

 女は結婚するまえ、美学校時代の夫の、徹底的な「ヒッピースタイル」が好きだったことを思い出す。周りには多くの「藝術家」の卵たちもたくさんいて、彼らの制作にぬりこめられた自我は、一ヶ月も風呂に入っていない体臭のように、臭った。たしかに真の藝術家というのは、この体臭をフェロモン臭にかえられるものであるが、大抵は臭くてたまらない。

 女の夫は、ただ「巨大」なものだけを追い求めていてそこには藝術のもつ臭さが全くなかった。それがよかった。

 女は、仕事場の巨大なヘタクソな字のまえで、いつも自分の人生をふりかえることになる。そうすると、心がカアっと燃えてくるのだ。

 女は、巨大なアルミの鍋を手に取った。これも夫の作品である。女はこの巨大な鍋に、日東紅茶のティーバッグを20袋いれ、大量の牛乳と砂糖をぶちこんで火をかけた。この大量のロイヤルミルクティーが、この日の女の仕事を支えるのである。

 そうして、まるで宴会で100人に提供するかのような大量のミルクティーができあがると、それをカップに注いで、いざ本日の仕事へと取り掛かる女であった。



Copyright © 2017 宇加谷 研一郎 / 編集: 短編