第168期 #14
彼は本を読むことが好きだったが、多くの本好きがそうであるように、あるとき気がついた。読むべき本が無限にあるのに自分に残された時間はそんなに多くない。読んでも読んでも、読みたい本が増えてくるというのに、好きなだけ本を読みつづけるためには金も時間も、なにより体力も視力も必要である。働かないと生きていけない。読書を数時間続けるには少なくとも健康な肉体の維持が不可欠である。
それで、多くの本好きがそうであるように、あるとき彼は読書量を激減させた。日に2時間。本棚に500冊あれば十分。そう考えるようになった。ところがである。身銭を稼ぐための仕事をしていても、本のことを考える。小説、辞典、伝記、研究書。なんでもいい。なんでもいいから別の世界につれていってくれる本を。読む時間をくれ。そう思っても、やはり彼は働かなければ生きていける身分ではないのだった。
或るとき、彼は考えた。仕方がない。文字じゃないものを文字だと思うことにしよう。彼の仕事は駐輪場の管理人で、そこは昼夜とわず自転車の利用者が多かったから、彼はなんとなしに自転車の山を眺め、駐輪場にやってくる持ち主たちの顔や服装をながめ、飛び交う通行人の会話の断片に耳をすまし、そこに何かしら「シミ」のようなものを探そうとした。
「シミ」とは本における文字のかわりのようなものである。1人の男性が通りすぎるとき、男性のネクタイがピンク色であった。彼はそのピンク色を文字の一種「シミ」だと捉える。目の前の女性がピストルのネックレスを身につけている。赤毛の外国人。駐輪場に迷い込んだ蝉の鳴き声。パンクした自転車をひきずる中年女性の疲れた顔。
彼はぼんやりと「シミ」を頭のなかで拾い集めて、繋げていった。そこに通俗的な物語はなかったし、意味もみあたらなかったが、そういえばマルクスの資本論を彼が読破したときも、ただ読むのが好きなだけで理解力があるわけではなかった彼には、資本論そのものが大きなシミ、ときどき興奮するマルクスの口調を思い出すだけだった。だから読書に意味や理解を求めている彼ではなかったのだ。
「最近は街を読もうと思っているんだ」と上記の話をきいたのが半年前のことで、昨日また彼に会ってきたのだが、彼はとてもヘタな絵を私にみせて「ヘタだけどシミを絵にしてみたんだよ」と言ってニッコリ笑った。私はなんとなくそんな彼の生き方がいいなと思っているのである。