第168期 #13

蜃気楼

機械室で印刷機から排出される紙を眺めていたら、頭の中で「亡き王女のためのパヴァーヌ」が流れていることに気付いた。
この曲が何故急に頭の中で鳴るのかしばらく考えてみたが結局わからなかった。

間もなく昼休みに入る社内は冷房機の音のみが静かに唸っており、電話も鳴らずFAXも届かず来客も業者も来ない。上司も席を外していて、事務所内の社員数名が緩んだ空気を纏って気怠そうに仕事をしていた。

加工された窓硝子からは見えないが僕は今日の空の色を的確に思い浮かべている自信があった。そしてふと窓を開けたときに見える街路樹や自動販売機、斜め向かいのカピタンという喫茶店、隣接する駐車場なんかが無くなっている気がした。
その代わりに見渡す限りずっと砂漠が広がっており、空と砂の景色の中に、薄汚れたグレーの外壁の僕の会社が不自然に建っている。
事務所内から送信されるメールは社内で紙に印字され、相手先に届くことなく会社のどこか一角よりひらりと砂漠に捨てられる。それは熱風にさらわれ、やがて破れて砂に埋もれてゆくのだ。
僕たちはそんなことに気付かず、今日の来客が少ないのはこの暑さのせいであろう、と思ったり、たまにはこんな日もないといけない、と御褒美的に受け止めたりしている。
取引先へ幾度となく電話をかけてみては首を傾げて
「この電話機、壊れているかもしれません。」
と女子社員が云う。
「電話会社に電話し給え。」
と僕の同期の男。
「でも電話機が使えないのですけれど。」
「もうすぐ昼休みだから少し様子をみよう。この暑いなか修理に来て貰うのは気の毒だし。」 と先輩。

僕の頭の中のラヴェルはまだ静かに続いていて、この曲はそれほど長くはなかった筈なのに、と思う。
その金糸のような旋律は繰り返しをしていると感じさせないよう巧妙に発想標語を変えて鳴り続けているのかもしれない。
硝子張りの機械室からゆらゆら歩く同僚と、何やら笑っている女子社員の姿を眺める。
ふと見上げた時計の、針が全く進んでいないような気がして目を伏せた。
僕たちはここに閉じ込められたのかもしれない。
ここには世界から溢れた行き場のない光が集まり、対象物を見つけられないままに空しく白光するのだ。
砂を孕む熱風と最終小節に辿り着かないラヴェル。
僕たちはここで昼休みが来るのを永遠に待ち続ける。
僕にはそれが幸せな御伽話のように思えた。



Copyright © 2016 池辺雨森 / 編集: 短編