第167期 #9

風よ水よ人よ

 どうして俺は三十三歳なのに父親にもなっていないし俺の子を産んでくれて母親となるべき人とも出会っていないのだろう。どうして俺は三十三歳なのに父親でもないし、俺の息子または娘を産んでくれて母となるべき人と知り合ってもないのだろう。どうして俺は三十三歳なのに、どうして三十三歳なのに俺は、子供がいないし将来婚姻を取り結ぶべき恋人とも交際したり、そのための努力もしていないのだろう。

 ある土曜日の昼下がり。俺は後輩の家に来ていて、トイレに入っていて、そんなことを考えていて、小用をすませて台所に向かうと、エプロン姿の後輩の嫁に言われた。
「剥けました」
「ほう」
 後輩の嫁の手元のじゃがいもを覗く。小さくなっていた。
 俺は自炊歴五年だった。後輩というのは俺の大学のアルバイト時代の知り合いで、今年二十六歳だった。後輩の嫁は二十一歳で、料理が不得手だというので俺が料理を教えているのだった。
 俺は言った。
「小さくなった」
「芽は毒なので」
 じゃがいもの芽は毒なので後輩の嫁はそれをえぐり取ろうとした。そのうち身が最小化されてしまったらしい。
「包丁の刃の後ろを使って削る」
 後輩は土曜日も仕事で夕方に帰宅する。俺達二人はそれまでにカレーを準備しておけばいい。
 アパートの台所の奥の窓から太陽光が入りこんできていた。

 後輩の嫁が言った。
「風よ水よ人よ」
 そう言いながら「風よ水よ人よ」という銘柄の日本酒をカレーに注ぎこむ。
 俺がカレーには色々なものを入れた方がおいしいんだよと教えたから、余っているというその日本酒を持ちだした。彼女の実家から送られてきたものらしい。これで旨くなるかどうかは疑問だが。
 透明の液体が窓からの光に反射してまばゆきながら鍋に落ちていく。
 後輩の嫁には流産の経験があった。後輩は、毎時毎秒火蓋を切るようにめまぐるしく転変する社会人生活の中で即決、結婚したのだが、それは彼女が妊娠したからだった。けれど子供は入籍直後に生まれる前に死んだ。
 後輩の嫁が言った。
「一緒に言いましょう」
「構わんよ」
 後輩の嫁が肩凝りの人がやるように首を巡らせる。銀河の運行を思わせた。首を巡らせながら、手に持ったお玉で鍋のカレーを混ぜ返す。
「風よ」
「風よ」
「水よ」
「水よ」
「人よ」
「人よ」
 俺は聞いてみた。
「いまどんな気分」
「特等席に座っている気分」
 末尾に後輩の嫁がひひひと笑いを付けたした。
 俺も釣られて笑った。



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