第167期決勝時の、#9風よ水よ人よ(qbc)への投票です(2票)。
予選のときはうっかり見過ごしていたけれど、この話は、現在三十三歳の主人公が、二十六歳の頃の出来事を回想するという設定になっている。三十三歳の主人公は、冒頭で、無駄に過ぎていった年月を嘆いてみせるのだが、冗談ぽい語り方で、さほど深刻そうでもない。しかし二十六歳や三十三歳、そして後輩の嫁の二十一歳という年齢に注目してみると、歳を取ることの残酷さのようなものが浮かび上がってくる。ある程度歳を取れば、その残酷さもマイルドになっていくのだと思うが、特に二十代なんかは、一歳違うだけで、その年齢に対する印象もずいぶん変わってくるような気がする。それは他人の年齢に対してだけでなく、自分の年齢に対してもそうだろう。もし主人公が当時二十五歳だったとしたら、後輩の嫁と関係を持とうとしたかもしれないが、二十六歳になったらそういう心境ではなくなるということもあり得る。
年齢を気にするのは、下らない幻想に縛られているだけのようにも思えるが、歳を取るごとに、一歩ずつ死に近づいているのは事実なのだから、そこ(それぞれの年齢)には、やはり重要な物語が隠れているように思える。(euReka)
参照用リンク: #date20160905-211659
予選票の通り。
「風よ水よ人よ」は内に広がる。ごく狭い世界を描いている。狭いのだが、それは閉ざされた空間だからであって、内にある闇の広さの限度のなさを私は感じてしまったからしょうがない。最初の文(〜そのための努力もしていないのだろう。)は少しげんなりするが「会話」の言葉の妙には関心するしかない。
「錯覚」は「風よ水よ人よ」よりも他人との交流による世界の広がりを感じる。何より、キーワードが面白い。しかし、予選票にも書いたが、タイトルの違和感は拭えない。「錯覚」の作者の作品を既に単純な娯楽として楽しめない自分がいる。何か意図があるのではないかと、勘ぐったりする自分がいるのには腹がたつ。もっと素直に楽しみたいができない。
参照用リンク: #date20160904-211453