第149期 #6

辞書を編む

 辞書がある。一語につきひとつの語意が注意深く選ばれる。許される言葉の数は限られている。私たちは辞書にのっとって話さなければならない。誰も傷つけないように。誰も非難しないように。私たちは常に正しくあらねばならない。政治的に、正しく。
 私たちは会話をする。言葉の端々まで意識的に、思考を重ねて発話する。辞書から外れることなく、辞書の定義に完璧にのっとって。
 一方で、私たちは私たちの文法をつくりあげる。それは、ほんの少しの語尾の変化。ほんの少しのアクセントの変化。発話する言葉はそのままに、新しい文法をつくりあげる。辞書から外れることなく、辞書の定義に完璧にのっとって。誰にもそれと気づかれることなく。それは、私たち自身にすら。
 私たちの文法は、辞書の言葉に私たちの意味を含意させる。私たちは非難する。私たちは嘲笑する。私たちは常に抵抗する。
 私たちは私たちを解体する。私たちは私たちを無にする。私たちは常に私たちに抵抗する。
 辞書がある。その辞書の編纂に関わるのは、すべての私たちであり、そして、その辞書を目にする人間は誰もいない。いつか編みあがったその辞書が人の目に触れることもあるかもしれないし、誰の目にも触れないまま朽ちていくかもしれない。けれども、それは今ではない。



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