第13期 #26

 雨が降っていると女は言うのだが開け放たれた障子の向こうに見える夜空にはいくつか薄く筋のような雲が浮んでいるだけで雨雲など何処にもなく当然ながら雨など一滴も降ってはいない。私は俯き加減で給仕を続ける女の半襟から覗く白い項を見るとはなしに見ながら雨など降ってはいないと言い返すのだが女は私の言葉がまるで聞こえない様子で「ほら、雨音が」などと相変らず俯いたまま酒を注ぐ。ぐつぐつと煮える牛鍋に箸をつけるのは私だけでともすればちぎり蒟蒻の山に埋もれがちになる紅色の肉を返す私の箸の鈍色をした箸先さえ女は見はしない。「このような風情の雨はなんと申し上げればよいのでしょうか。ざぁざぁでもなく、しとしとでもなく」いやだから雨音など全くしはしないし障子の外に見える庭木を濡らすものは何もない。雨など決して降ってはいないのだ。女は相変らずこちらを見ようとはせず酒を注ぎながら「お帰りの際には傘を」と言う。私はそんな女の長く伸びた睫を見ながら、はてこの家は私の家の筈ではなかったかと思うのだが何故だか判然としない。いや、判然としない筈はなくこの家は間違いなく私自身の家で違い棚に置かれたあの皿はいつだか古市で見つけた古伊万里で、いやいや実のところ古伊万里に似せた全くの贋物で全く何の値打ちもない。「なかなか心地のよい雨音ですわね」いやだから雨など全く降ってはいないし、雨音など聞こえはしない。聞こえるのは牛鍋がぐつぐつと煮える音だけで、それ以外は虫の聲一つしない全く静寂だというくらいで気付いてみればそれはそれで不気味というべきかもしれない。空いた杯に女が酒を注ぐ。その白く長い指先を見つめながら、そういばこの女は私の妻なのだろうか愛人なのだろうかそれとも全くの他人、例えば先日亡くなった友人の妻なのだろうか。これもまた何故だか判然としない。或いは私の母かもしれず、娘かもしれなかった。「ほら、雨が降っていますわ。このところ毎晩雨」と女は膳にとっくりを片付けながら言う。鍋を覗くとすっかり肉はなくなっていて煮込まれ色付いたちぎり蒟蒻だけが鍋の中で山をつくっていた。「ほら」と女はまた口を開いたが今度は雨が降っているとは言わずそのまま動きを止めてほんの僅かちらりと私の方を見遣った。女の眸に私が映り込んでいる。ああ、そうだ。雨は降っているのだ。雨音はしない。庭木を濡らす雨粒もない。けれども、確かに雨は降っているのだ。



Copyright © 2003 曠野反次郎 / 編集: 短編