第13期 #25

幸せなら蚊を叩こう

 部屋の向こう、街路樹の上で蝉が鳴く。古い扇風機はそれに合わせるようにカタカタと音を出して首を振っていた。
「たーいりょー、ぎゃくさつー」
 ヒロは机の上の夏休みの宿題をものの見事に無視して、声を上げながら調子良く手を閉じて開く。するとその度にへしゃげた黒い小さな蚊の残骸が。
「何やっとんの?」
 たまたまヒロの部屋を通りかかったユキは、怪訝そうな顔をして彼を見た。するとヒロはにまっと笑って、広告の紙の上の‘成果’を指差す。
「見てや。八匹目」
「アホか」
「なんでーや。この部屋、蚊ぁ多すぎんねんて。夜、めっちゃ刺しよんねんムカツクわあ」
 ヒロは手をはたき、今しがた殺った蚊を広告の紙になすりつける。ユキは一つ溜息の後、口を開こうとした。
「あんたそんなんより宿題やりぃな言いたいんやろ、姉ちゃんは。判っとるよ」
 弟に先手を打たれて苦々しい顔つきで、ユキは部屋の奥の大きい窓を眺める。網戸と窓枠との細い隙間は、地震による歪みが原因とされている。
「これ、この隙間。目張りしといたら? ガムテあったやろ」
 姉のもっともな台詞にヒロは顔をしかめた。
「テープないんやけど。家のどっこにも」
「もっと気合入れて探しぃや。もしくはお母ちゃんに頼んで百均」
「もう頼んだ方が早いって。家汚すぎ」
 毒づきながら、ヒロは汗を一滴ぽとりと落とす。空には薄い雲が流れ、蝉の声がやけに暑苦しく流れた。
 やがてユキが呟く。
「あれよな、友達に聞いたんやけどさ、叩いたりして殺した蚊って水で流したらあかんねんてな」
「?」
 ヒロが目で疑問を訴えると、ユキは「考えてみぃや」と言葉を繋げる。
「蚊の子供はボウフラやで。水で育つんやで。いつか親ぁ殺された恨み溜まって、仮面ライダーの怪人やあらへんけど、人の血をいっぺんに吸ったりするヤツとか産まれてくるかもしれんやろ」
 ヒロはユキの台詞にしばらく首を傾げていたが、生温い風が狭い部屋に僅かばかり吹き込んだ拍子に、「うわぁ、やだやだ」と嫌そうな顔をする。
「俺、早死にしたないー。絶・対、そんなヤツに殺されたないー」
「……よぉまぁ、そんなん言えるなぁ。……因果応報って知らんの自分」
「知らんよそんなん、俺蚊ぁちゃうし。恨まれてても知らんし」
 しれっとした顔でヒロは広告の紙を折りたたんだ。それを見てユキはその場にしゃがみこみ、扇風機の首をわざと自分のところで止めて、「幸せなやっちゃ」と震える声を出す。



Copyright © 2003 朽木花織 / 編集: 短編