第118期 #17

紙片

 今までなかったことだが掛けようとした相手の番号が携帯電話のメモリから消えている。そんな筈はないがなんらかのきっかけでデータを消去してしまったのかもしれない。或いはそもそも番号を登録していなかったのかもしれない。
 わたしは三二歳だったかもしれない。会社員だったかもしれない。男性だったかもしれない。自分のプロフィルさえ時おり不鮮明になる。ただ以前に恋人がいるときは別だったのだが。例えば恋人の目が年齢からくるわたしの服装への興味への減退をきびしく監視する。わたしの年収を見張る。わたしがわたしである輪郭は、恋人の言葉が形づくっていた。
 ところで、会社の後輩にひどい物忘れをする男がいた。会社では博覧強記なのだが、社外ではしょっちゅう何かを忘れた。彼はこのほど、五年間の交際の末に恋人と別れた。彼は言うのだ。
「よくよく考えたうえの結論です。分かりますよね、先輩は。だから話しているんですけれども。彼女が言います。
 ――なんでこの前、がんばるって言ったのに、それを忘れるの。
 約束するんです。けど、すぐその約束を忘れるんです。そのたびに彼女は怒る。その都度、俺は忘れないようにがんばるから、って答えるんです。でも、先輩、なんど約束しても俺は忘れるんです」
 わたしたちは喫茶店で話をしていた。彼の顔はしわくちゃの折り込み広告だった。しかし彼はよく喋った。
「どうしていいか分からなくなりますよね忘れると。相手に対してまずいな、という気持ちと、それから、忘れることなんてどうでもいいじゃないかという気持ち。たぶん約束じたいがどうでもいいから忘れるんだけど、でも、彼女の手前、それは言えないでしょう。傷つけるから」
 優しいかどうかじゃない。忘れないかどうかじゃないだろうか、人間は。わたしは怖くなった。このまま電話番号を忘れたままでいると、わたしは彼のようになるんじゃないか。番号をおもいださなくては。彼のようには。このままでは。もう。
 わたしは机の上の紙の束をひっくり返した。床に散乱する紙片。たしかメモがある。番号を書いたメモが。メモをもらっておいて良かった。あった。番号。きみのか。いやちがう。きみとはちがう名前が書かれてある。それは不注意で濡れてがびがびになっているかもしれない。丸められて潰されているかもしれない。わたしは、懸命に探した。泣きだしてしまいそうだった。もうなにもかもを忘れたくはなかった。



Copyright © 2012 qbc / 編集: 短編