第118期 #16

水またはお湯とともに

 わたしには、足りないものがある。
 失われていくものがある。
 余計なものもままある。
 日々の暮らしはままならない。
 スイカのチャージ画面の一万という選択肢にタッチしたい衝動が北方騎馬民族の視覚的イメージを伴って肘のあたりまで駆け下りてきたのを感じて、わたしは慌てて手を引っ込める。それがどこで生じたものなのかまるでわからないけれど、二の腕がむずむずしているから、そこに落ち着こうとしているのかもしれない。少なくとも、身体から出ていこうという気配は感じられない。
 一万どころか五千にすら触れたことがないのだと言ったら、きみは笑うかもしれないけれど、千円札が何枚か飛び出してくるところが、実際どうしようもなく、わたしは好きなのだ。
 これは戦いに備える行為だから、月曜日では遅過ぎるし、休日には血生臭い。人との距離が少し離れて感じられる、金曜日の夜にこそふさわしい。
 いつもよりどこか優しく響く自分の足音を聞きながら長い坂を下りるとき、わたしはまさに坂を下りることを考える。踵を打つアスファルトの感触や視線の上下動、髪と空気との接触といった微細な感覚を楽しめるようになったのは、つい最近のことだ。
 坂を下りきると、コンビニが視界に入る。次善の厨房、次善の冷蔵庫、次善の倉庫といった具合に活動範囲を広げていって、いつしか最善の施設のような顔をするようになったコンビニは、ままならなさの象徴のようであり、わたしはちょっと苦手だ。
 しかし、いやしくも現代人を名乗る者が、利便性を否定したところで仕方がない。仕方がないと思うこともまた、仕方がない。
 暗い駐車場の明るい自動販売機の前を通り過ぎれば、きみの待つ家はもう目の前だ。
 沢山の葉酸、目がくらむほどのクロム、ふんだんなマンガン、倦むほどのカルシウム、盛り沢山のパントテン酸、夥しいナイアシン、無尽のセレン、山盛りのモリブデンといったようなものよりも、ただきみがそこにいるということが、わたしの一日に張り合いと規律をもたらしている。
 それは悲しい規律かもしれないけれど、わたしはきみを飲まずにはいられない。決まった時間に、決まった量。
 鍵穴に鍵を差し込むハンドアイコーディネーションが最近衰えた気がする。自分の家の玄関先でもたつくのはしかし、それはそれでいいんじゃないかという気がしている。



Copyright © 2012 戦場ガ原蛇足ノ助 / 編集: 短編