第116期 #12

しき

 彼女は浴室が好きだった。水を張っていない浴槽に潜りこんで僕らは抱き合った。彼女の首筋は土の匂いがした。ぴったりくっついてその匂いを嗅いでいると僕は幼い頃を思い出して安心した。

 茹だるような蒸し暑い日が続いていた。浴槽の中で身を寄せ合っているとすぐに汗だくになった。彼女が腕を伸ばして青い色のつまみを捻る。冷たい水が降り注ぎ、思わず声を上げた。彼女は笑いながら「夕立」と言った。
 排水口に栓をする。水を吸った服が重い。少しずつ満ちていく浴槽の中で抱き合ったまま、やがて二人とも心地よい眠りに沈んでいった。
 僕は夕方に目を覚まして、栓を抜いた。蝉の鳴き声がやけにうるさかった。

 吹く風が冷たくなり、木々の緑が剥ぎ取られていく。僕は並木道を歩いて落ち葉をポリ袋いっぱい拾い集めた。
 彼女は浴槽の縁を掴み、目を輝かせて待っていた。頭上で袋を逆さにして赤や黄色の雨を降らせると、きゃあきゃあとはしゃいだ。袋が空になると両手で掬って舞い上がらせた。彼女は瞳を閉じ、枯葉が触れるたびにくすぐったそうに笑った。
 僕は一本の枝を彼女の髪に挿した。枝先で真っ赤なもみじが揺れていた。

 寒いねという声に、そうだねと返事をして外に出た。街は一面真っ白で、空から小さな粒が絶え間なく降り続けている。僕はできるだけきれいな粒を選んで集めていった。
 手袋をした手で雪を掴み、浴室で盛大にばら撒いた。悲鳴にも構わずどんどん降らせる。気づくと彼女が非難めいた眼差しを僕に向けていた。僕は謝って温かいシャワーを浴びせた。
 それから余った雪で雪だるまを作って彼女の傍に置いた。翌日には溶けて消えてしまった。

 だんだん暖かくなり、小鳥の囀りが聞こえ始めた。僕は満開の桜の下で降り積もった花びらを集めた。
 最近彼女は口をきいてくれない。もしかしたら雪のことをずっと怒っているのかもしれなかった。
 花びらを手で掴んでぱっと宙に放った。花びらはひらひら舞い落ちて彼女の上に積もる。昔話のはなさかじいさんのように、彼女に花が咲けばいいと思う。
「ねえ」彼女の唇が震えた。その顔は穏やかに微笑んでいる。
「私、しんでるの?」
 いいや、君は、生きてそこにいるよ。
 彼女を抱きしめる。むせ返るような土の匂いがした。

 翌朝、彼女の体から小さな双葉が顔を出しているのを見つけた。一匹のダンゴムシが隣を這っている。
「夕立」と僕は呟いた。土砂降りの雨が頬を伝った。



Copyright © 2012 Y.田中 崖 / 編集: 短編