第116期 #13

 今にも泣き出しそうな曇り空だった。
 高級ホテルの中庭で、崇は唇を噛んで俯いていた。
「崇ちゃん、お母さんのこと名字で呼ばないでって何度言えばわかるの」
「ごめんなさいお母……平岡さん」
「あなたも私も平岡さんでしょ。誤解されちゃうじゃない」
 母親はしゃがんで崇と目の高さを合わせた。母親の視線を避けた崇は、蟻の巣に気づいた。

「崇くんが怒られています」
 女王は蟻たちを睥睨して叫んだ。
「彼には恩があります。助けましょう」
 だが蟻たちの反応は冷たかった。
「うるせえ、黙って産卵してろ」
 女王は動揺を隠せなかった。だが即座に自分を取り戻す。
「命令です、崇くんを助けなさい」
 蟻たちは動きを止めた。
「おいおい、俺たちは別にアンタが偉いから食い物運んでるんじゃねえ」
「このシステムが生存に適してるから働いてんだよ」
「行こうぜ、表でアメちゃん見つけたってよ」
 蟻たちは去った。女王はうなだれて顎を震わせた。
「女王!」
 部屋に若い蟻が駆け込んできた。
「あなたは、アリムロといいましたか」
 女王はもはや何の意味もなさない威厳を繕ってその蟻を見つめた。
「私が行きます。崇くんを助けます」
「おお、アリムロ……」
 胸を張った蟻は、女王の複眼には誇り高き騎士として映った。
「頼みます」
「はい。アリムロ、いっきま〜す!」
 若き騎士は走った。他の蟻たちを足蹴にして地上に飛び出し、崇の母親目がけて突進した。
 崇はその勇姿を見逃さなかった。アリムロ渾身の体当たりが母親の靴に炸裂する。
「戻るわよ、崇ちゃん」
 母親は立ち上がり踵を返した。その足下で、蟻が一匹すり潰されたことを彼女は知らない。
――アリムロ!!
 女王と崇の絶叫は同時だった。湧き出した涙は零れたのかどうか。降り出した大粒の雨が、崇の顔を覆ってしまった。

「その後はご存じの通りだ。もう三年になるが、雨は一度もやまない」
 痩せた老人が廃屋の軒下から鉛色の空を見上げた。
「ふうん」
 その隣で少女も顔を上げた。ボロを纏っているが、整った面立ちと赤い髪が目を引く。
「じいさんはその子とどういう関係なの」
 少女は視線を老人に移した。
「その話は長くなるから今度な。お前さんもあの日、何かあったクチじゃないのかい」
 老人は曇り空が浸食したかのような灰色の瞳を少女に向けた。
「うん。でもその話も長くなるのよね」
 少女は微笑を浮かべて空に視線を戻した。庇から落ちた一滴が、白磁の頬をなぞった。



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