第116期 #14

ぷつり

 病院から連絡があった日のことはよく覚えていない。仕事を切り上げて急いで向かったはずだが、どのようにして病院へ着いたのかも思い出せない。覚えているのは、霊安室で全身に包帯を巻いて横になっていた妻と娘の姿だけだ。単独事故だった、即死であったと聞かされても、なんの感想も出てこなかった。ぐるぐる巻きになっている二人だけが全てだった。こんな状態だからと、葬儀の前に火葬を終わらせた。二人の顔を見ることはできなかった。涙を流す時間もなかった。
 あわただしく葬儀を終え、住んでいるマンションに帰った途端、嗚咽が止まらなくなった。机の上のチョコチップクッキー。畳みかけの洗濯物。ところどころに丸がつけてあるスーパーのチラシ。つけっぱなしのパソコン。見ていたのはクックパッドだった。
 家のどこを見ても、家族の足跡があった。私は抜け殻のように家中を徘徊した。三本の歯ブラシが入ったマグカップを床に叩きつけた。割れなかった。娘が使っていた小さな布団を抱きしめた。妻の枕に顔をうずめると、残り香と一緒に、どうしようもないほどの思い出と感情が突き上がってきた。私は何度も何度も枕に叫び、布団を拳で殴った。
 いつの間にか眠っていたらしい。目覚めても隣には誰もいない。朝になっても、夜になっても私は一人きりだった。何度も妻と娘の声が聞こえ、周りを見回し、自分の作り出した幻であることに気づいて、また泣いた。

 三週間が経った。何度も死のうとしたが出来なかった。なんだか申し訳なかったのだ。私は再び会社に行き始めた。何かをしていないと自分を殺してしまいそうだった。仕事をただこなし家に帰る。おかえりを言ってくれる人はもういない。外食するといろいろ思い出しそうで、適当に買ってきた惣菜を義務的に食べた。味はしない。私の日常には何もなかった。私の生きる世界は意味をなくした。
「二か月経っても立ち直れない時は、また俺に言ってくれ」
幼馴染の友人はそう言ってくれた。二か月使っていいんだ。そう思うと、気持ちが少し楽になった。惣菜に味が付きはじめた。風が日に日に冷たくなっていることに気が付いた。ベランダの風鈴を外した。家族の布団を畳んだ。

 何年も経った。時間は偉大だった。遺影を抱きしめて泣くことも減った。
 でも何か、何かが足りないのだ。何かが私にぽっかりと大きな穴を空けていて、苦しくて寂しくて仕方がないのだ。
 きっと、これからずっと。



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