第113期 #14

或犬の一生

 モップは犬である。横山家で飼われているプーリーである。
 モップは自分の名前が、掃除用具に姿が似ているところから来たということを知っている。しかしそれを不快に思ったことは無い。横山家の人々は彼を呼ぶ時、きちんと「モ」にアクセントを置いてくれるからである。我ながらよく似ているものだとも思っている。
 もちろん、彼のその掃除用具然とした体毛は飾りではない。ただ家の中を歩くだけで、いつの間にか腹の下がホコリと髪の毛だらけになる。横山家の人々はそれを喜んだ。彼の毛に絡まったゴミを捨てるだけで掃除が終わるからだ。モップがわざと廊下の端の方を歩いたり、部屋の隅で腹ばいになるのはこのためである。
 横山家には高校生の姉と中学生の弟がいた。散歩には大体この二人が連れて行ってくれた。姉の方はなるべく散歩を早く終わらせようとするから少し嫌だった。特に冬はその傾向が強くなった。しかし散歩終わりのブラッシングを丁寧にしてくれるのは姉の方であった。散歩に行くと腹が砂にまみれてしまうのだ。彼女は、モップにしか聞こえない声でゆっくりと語りかけながら、一本一本の毛を慈しむように梳いてくれた。
 弟の方はと言うと、気分次第ではあるが、見たことも無いほど遠いところへ連れて行ってくれることがあった。モップはその大きな川沿いの土手で、次第に暗くなり始めた空の、藍色と橙色の間に向かって、小さくではあるが鋭く、一つ、吼えた。なんだか二度と家に帰れないような気がして不安になったのだ。なんだか大事なものをどこかに置き忘れたような気がして吼えずにはいられなかったのだ。リードを握る手に力がこもった。きっと同じ気持ちだったのだろう。二人は何かにせきたてられるように、走って家に帰った。

 月日は流れ、二人の子供は巣立っていった。モップはいつからか、食事を残すようになった。前のように、廊下の端を歩くこともなくなった。一日のほとんどを、リビングの隅でまどろんで過ごすようになった。
 彼はとろとろと眠りながら、鳥になることを考えたり、魚になることを考えたり、蝶になることを考えては、何かと理由をつけて打ち消した。最後に犬になることを考えた。悪くない、と思えた。いいじゃないか、もう一度くらい。
 彼は静かに息を吸い、ぶるっ、と震えたあと、動かなくなった。横山家に来てから、十四年目のことであった。



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