第113期 #13

夜、石を投げる

件名:池、石、音
本分:夜、凍った池に石を投げると面白いことになりますよ。今年もそういうシーズンになりました。

 二月に入り、今年初めて池全体に氷が張った日、職場のアドレスにこんなメールが届いていた。差出人は仕事で何度か顔を合わせたことのある男だ。誰とでも初対面から打ち解けそうな、大らかな笑顔が思い浮かぶ。

 その夜、明け方までかかると覚悟していた仕事が予想外に早く片付いた。前夜の失敗を取り返すような高効率で精度の良いデータが取れたのだ。ささやかな成功と深夜の無意味なテンションに浮かれ、いそいそと荷物をまとめた。とうに日付も変わり、十三夜の月が西に大きく傾いている。何だか知らないが、池に石を投げるには絶好の晩だ。帰路から少し脇に逸れた場所には、大きな溜め池がある。

 月は傾きながらも皓々と辺りを照らし、ひとり歩く私の影を長くくっきりと、霜で輝く草地に落としていた。日暮れからずっと雲ひとつない快晴だった。放射冷却によって地表はすっかり冷え込み、しんと静まりかえっている。時折遠くの人里で犬の吠える声だけが、向こうの山にこだまして響いてくる。

 目的の山道へ分け入ったところで、池の縁に十人余りの人影が見えた。
 ―――この真冬の夜中に、こんなところで集会か?
 訝りながらも近付いてみると、先客達は特に集う様子でもなく、それぞれに立って池を眺めたり、腰をおろして休んだり、しゃがみ込んで地面を探ったりしている。中には連れ同士らしいのもいるが、彼らとて話もせず黙ってただ連れ立っており、これだけの人が居ながら、山の夜のひっそりとした空気が保たれている。
 と、しゃがんでいた一人が、立ちあがり一歩池の縁に進み出て、拾い上げた石を投げた。全員が耳を澄ましたのが分かった。

 一瞬の間を置いて、硬い衝突音を予期した私の耳に、意外なほどユーモラスな、かつ美しい音色が届いた。氷の振動がその下の水面と共鳴するのだろう。しんとした夜空に軽やかな余韻を響かせて、石礫は氷の上を跳ね、転がった。

 合点が行った。皆思い思いにこの音を聴きに来ているのだ。知らなければ思いもよらないだろう。聴けばすぐにわかる。この愉快な音は、冬の冷たい静けさの中に響いてこそ価値があるのだ。
私は人々が投げる石の音を聴き、また自ら数個の石ころを拾っては投げ、挨拶もせず立ち去った。

 帰宅後、そういえばメールを寄越した男はいなかったな、とふと思った。



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