第112期 #9
何度試してみても礫は掌から転がり落ちる。
それは上と下があべこべになっているからで、というのもわたしがひどく酔っているからだが、遠のいていく沢山の背中目掛けて放たれる無数の礫が、左回りに、ちょうど渦を巻くように小さくなっていく。
そういえばわたしはここを訪れたことがある、とわたしは視界にある渦とは違う層にある文字を頭の中で読み上げた。それは、外語で書かれた小説をわたしが母語に訳したものの冒頭の一説だった。時々、わたしは頭の中にあるわたしだけの図書館に目覚めたまま入り込んでしまい、そこにあるわたしのためだけの書物を開いて時を過ごしてしまうことがあった。この時もそうで、次に顔を上げた時にはわたしの他に誰もおらず、向こう側に石に覆われた荒野が広がっているだけだった。
ふらふらとひとり家路につくと、一目でそうと判らなかった母の出迎えを受けた。母はここにいる人ではなかった。遠く離れた森の都でわたしの兄弟と暮らしているはずだった。母は一言も口を利かず、わたしのために何かをしてくれるわけでもなく、ひとつしかないベッドに潜り込んでそのままこんこんと眠った。その姿を見ていると、どうして眠りというものがあるのだろうかと考えずにはいられなかった。それがここにあってはならないとても不自然なことのように思え、わたしは胸の辺りにあった毛布を引き上げ母の寝顔を隠してしまった。しかし、毛布は静かに上下に揺れ続け、目には見えないが動き続ける心臓のように、大きな秘密を隠しているように思えてならなかった。
母は幾日も眠り続けた。寝返りを打たせないと壊死すると靴屋の旦那に教えられ、日に何度もわたしは母の体を右に左に動かしてやらねばならなくなった。その体は痩せ、羽毛のように或いは骨のように軽く、この思わぬ仕事はわたしから体力は奪わなかったがわたしからわたしの図書館を奪っていった。
ある日の荒野からの帰り道、空に出来た巨大な目玉のような太陽がどろどろに溶けるようにして地平線に埋もれている姿を見た。後ろを振り返ると、わたしの影は反対側の地平線に触れて、先の方がやはりゆらゆら溶けるように揺れていた。わたしは石になったように身動きが取れず、日没まで待ち、ようやく太陽から解放されて家へ帰った。
わたしは酒ではまったく酔えなくなってしまった。それまで気の合う仲間だった者が突然口も利いてくれなくなったようなものだった。