第10期 #15

嫁月余話

 朝は無糖の珈琲。夜は舶来の蒸留酒。葉巻飲まず。庭には犬。棚には書。家人一人。
 吾、文士也。草脇稀人と号す。浮世に幾許かの名を知られたる者――。
「小父様、御午の支度が調ひましてよ」
「あゝ」
 菊子に答ふるも、猶半刻ばかりは自室を出でず。
「冷めますわよ」
「あゝ」
 漸う腰を上ぐる。菊子は、少しく予を責めむが如き気色で迎ふ。
「小父様、すっかり冷めて仕舞いましたわ」
「済まぬ」
 卓に着き、椀を取る。飯は忽ちに予が腹に消ゆ。
 香の物、赤出汁、根菜煮付け、焼き魚。
「茶を貰はうか」
「はい、只今」
 菊子は甲斐甲斐しく厨へ立つ。宿痾に斃れし莫逆の友、月形光輪が忘れ形見――。
「幾つに成る」
「嫌ですわ、お忘れに為ったの、小父様」
 茶を淹れ乍ら、菊子は笑ふ。
「然うでは無い。何時迄もお前に女中の真似事をさせては置けぬと謂ふ事だ。お前も世間並みに良縁を得て良い年歯だらう」
 菊子は覚束ぬ気色で小首を傾ぐ。
「菊は、小父様にお仕えするのが仕合せなので御座います」
「然しだ」
「菊の仕合せは菊が決めます」
 常に似ぬ強情な口調で、菊子は楯突く。おやと思えど、旧友の面影を其処に見むか、予は重ぬべき言を失ひつ。
「小父様は菊を煩く思われて、お屋敷から放逐せむと御考えですのね」
「馬鹿な」
 噎せたるは、茶の熱きが故。
 菊子は庭に出て、犬を呼べり。尾頭付の骨添へたる飯、与ふ。
「それに……、菊には月形の血が流れて居りますもの」
「止さぬか」
 菊子の背に向かひて、予は少しく語気を荒げる。菊子は黙る。犬は飯を食らって居る。
 菊子の芳姿――其の細腰、其の項、其の緑髪。微かに覗く頬辺に、憂愁と為すは頗る明かき色が漂って居る。陽、高し。
 予は掌篇を物せり。文壇は之を容れず。筆を折りけり。癇癪の類に非ず、去り遣らぬ哀憐の情に従へば也。天には唯、謐謐たる皎月ぞ有り。予には唯、年経る毎の思ひぞ有り。彩へる間管咲が記憶を誘はむ。
 朝は無糖の珈琲。夜は舶来の蒸留酒。葉巻飲まず。庭には犬。棚には書。家人居らず。
 吾、文士也。草脇稀人と号す。浮世に幾許かの名を知られたる者――。



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