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第200期を読む その2

つづいては、#3です。(行数制限のため、2つ入りませんでした)



#3 My name is Matt Nelson. I'm from Atlanta, Georgia, USA テックスロー
http://tanpen.jp/200/3.html

 こちらもまず、冒頭の一文を引用してみましょう。

   クラブで声をかけた女は笑うと幼さが際立った。貼りついたように笑い続けるので、声をかける前の物憂げな表情はもう思い出せなかった。

 この段落では一人称なのか三人称なのか定かではありません。2段落目を引用してみます。

   マットはもともと日本人女性には特に思い入れはなかったが、実物を目の前にして、彼女らに入れあげる同郷人の気持ちがなんとなくわかる気がした。

 この「マット」を視点人物とした三人称小説であることがわかりました。#2の「鮎」のように視点人物の心内の台詞が出てきたりはしませんが、「なんとなくわかる気がした」と、「マット」の考えが記述されていますので、一人称寄りの三人称小説ということになるでしょう。
 では、内容に入っていきましょう。

   マットはスクールカーストの上位から転落したことはなかったので、下位に属する連中のようにねじ曲がった性癖を持ち合わせてもいなかったし、彼らのように米国で成就できなかった自分の支配欲を、二次大戦後すっかり仲が良くなったトモダチ国のメジャー級人材で昇華させる必要もなかった。

 「スクールカースト」とは、学校社会において形作られるヒエラルキーの序列のことです。「マット」は「上位から転落したことはなかった」ため、下位に属する連中の「ねじ曲がった性癖」を持ち合わせていなかったと語られます。ここで書かれている「性癖」は、一般的に誤用されている"性的嗜好"という意味ではなく、本来の"性格"に近い意味として使われており、それは「スクールカースト」および「支配欲」と並んで語られていることから推測できます。
(ちなみにアメリカ合衆国のスクール・カーストについては、Wikipedia「ジョック」の項にある「階層構造の図象」をごらんください)

   Wikipedia - ジョック
   https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%83%E3%82%AF#

   彼らのうちの一人に招かれてその家と同じようにスタイリッシュに振舞う日本人女性を見、彼女たちが「正しい」自由を語るときのまっすぐな小さな目を見るとどうにもむずがゆく、歯の浮くような気持ちになり目をそらすと、スタイリッシュな部屋にすっかりなじんだ掛け軸が目に飛び込み、その時天啓のように、日本で日本人女性を抱かねばならぬと思った。

 「マット」は、アメリカ化した日本人女性を目の当たりにすると「むずがゆく、歯の浮くような気持ち」になり、目をそらしたその先で、アメリカの住宅に馴染んだ、アメリカ化された「掛け軸」を見つけます。そして「日本で日本人女性を抱かねばならぬ」と思うわけですが、これは、「日本人」が"自由の国"であるアメリカで「自由を語る」ことの裏返しになっています。
 2段落目のみ「マット」の回想になっており、他の段落はすべて現在の「マット」の視点になっています。現在の「マット」は日本におり、クラブで声をかけた日本人女性が住む「Dirty(不潔)」でも「Messy(乱雑)」でもないドールハウスのような部屋でその女性を抱きます。女性の肩甲骨には「free(自由)」という彫文字があり、この部分は2段落目で自由を語っていた日本人女性と照応しています。

   外に出る女についてダウンを羽織り、導かれるまま誰もいない神社の鳥居をくぐった。女の真似をして賽銭箱にポケットに入っていたくしゃくしゃの1ドル紙幣を投げ入れ、笑いながら女を見ると見返す女は真剣な顔で「ユアネームアンドアドレス、ファースト、ゼン、プレイ」「Play?」

 女は「マット」に、"pray"(祈り)について教えようとしますが、神社がどのような場所であるのかをおそらく知らない「マット」は、"pray"を「play」と聞き間違えます。

   女から返答はなかった。拝殿に向き直るとその後ろに朝日が眩しく、不意を突かれたマットはくらっとして目を瞑り、そのまま押さえつけられるようにして頭を垂れた。

 朝日に目がくらんだ「マット」は、目を閉じて頭を垂れるという祈りの姿勢になります。「押さえつけられるようにして」というのが、女の腕力によるものなのか、それとも他の何かによるものなのかを断定する記述はありません。興味深いのは、1行空いての5段落目とさらに1行空けての6段落目のみ、「マット」の心内が記述されていないことです。「日本で日本人女性を抱かねばならぬ」という「マット」の思いは、「天啓」のように訪れたものでした。神社というアメリカとは別の神がいる場所で「マット」を襲った上の引用の現象も、もしかすると「天啓」なのかもしれません。ただ、そこで「マット」に起こったかもしれない心内の変化については、語られていません。この、視点人物の心内を描かない、というのも、三人称小説における技法のひとつです。



(#5へ、つづく)

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