> 長月様
障害者観というほど大袈裟ではないのですが、私の意図はごく単純なことです。
障害があろうがなかろうが、誰とでも同じように生きていけること。それを目指していきたいということです。
現実にはあまり達成されていないこの目標を、作品では達成させていきたい。
今回はごく普通の一場面を書いたつもりです。でもこれは「ごく普通」ではないのだと、さまざまなご感想から感じました。
障害者に夢を見させるのは残酷だという意見がありました。しかし子どもの夢を、大人は「ありえない」こととして切り捨てていくものでしょうか。
子どものころにプロのスポーツ選手を夢みて、叶う人はほんの一握り。それを「ありえない」から夢を見るなと言えるでしょうか。別の形(プロではない場など)で叶えたり、夢みた気持ちを糧に生きたりするのでしょう。
障害があってもなくてもそれは同じ。でも障害があるのだから「残酷」と思う人がいる。違和感を抱く人がいる。
そういう方に、「ごく普通」に読んでいただけないかと思って提出しました。
私の望む障害者像が描かれていない、というのは、障害者を描くときには「ある特別なもの」「普通とは違う異質なもの」を象徴させる場合が多いからです(qbc氏の作品も同様と考えました)。障害者も健常者もともにある空間を「普通のこと」として描きたいと私は思ったのです。
qbc氏の作品について。
「特殊学級」については先にも述べました。
「自閉する」は「Shut」ではなく「autism(自閉症)」。挙げておられる歌では「閉所恐怖症」という語がその後にくるようですね。
自閉症は単に「閉じる」のとは違います。訳語のため日本人には本来意味するものと違う印象で受け取られがちなようです。
他のものを描写して「自閉する」という表現が使われたのなら私も何も思わないかもしれませんが「特殊学級」と並べて使われると、障害者を象徴的に描いたものと捉えてしまいます。ちなみに自閉症やその傾向がある場合は特別支援学級のうち情緒障害学級に在籍することが多いでしょう。
現実の問題として、最近は解体傾向にあるコロニーや、施設も想起しました。障害者は歴史的に人気のないところへ追いやられたり隠されたりしてきました。
学級の便宜上の呼び名はいろいろあります。実務学級と呼んでいるのを見たことがあります。小学校では植物の名前などをよく目にします。特別支援学級は障害別に設置されるので学年をまたいで生徒が在籍することが多いのです。
いずれにしても法律上は特別支援学級(旧・特殊学級)と書きます。
彼の作品は小説というより戯曲のような形式で書かれており、「文章」というよりは「設定」「説明」のように読めて、より具体的に印象づけられてしまいました。レトリックではなく、まさに私も「そのまま読ん」だのです。