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つづきまして、#8と#9です。



#8 だから一緒に わがまま娘
http://tanpen.jp/200/8.html

 この小説は一人称で書かれていますが、「私」や「ぼく」などの主語が使われずに書かれています。語り手の名前も性別も不明です。語り手のプロフィールについてわかることは、高校に通っていたこと、大学に通っていたこと、卒業論文を書いたらしいこと、就職活動をしたらしいこと、そして大学を卒業したことです。
 そんな語り手は、現在、「友人」である「アイツ」の部屋にいます。この小説は、以下のように分けることができます。

   現在:1段落目と、17段落目〜20段落目
   回想:2段落目〜16段落目

 回想で語られるのは、「アイツ」とゲームをやった日々です。「アイツ」とは高校時代に出会ったこと、当時流行していたRPGゲームについて尋ねたのが最初の会話であること、その後、語り手の自宅に招いて一緒にゲームをやったこと、大学生になっても一緒にゲームを攻略したこと、しかし「一緒にいるとウザい」と思うようになり、また「自分の思うようにゲームがしたい」と思うようになったのもあって「どんどん会わなくなった」こと、その後「全然会わなく」なり、「大学を卒業したら連絡先さえも分からなくなっていた」こと、「アイツが読んでたゲーム雑誌」の「本当に小さな記事」に「アイツ」の名前を見つけたこと。
 「ゲームを作る側になりたい」と言っていた「アイツ」の名前をゲーム雑誌の記事で見つけた語り手は、以下のように思います。

   なんだか悔しい気持ちになった。あっちは自分のやりたいことを着々と進めていて、自分はどうなんだろうって。
   アイツと会わなくなって、何をしていたんだろうって。
   悲しい気持ちと悔しい気持ちが込み上げてきて、雑誌を手にしてレジに向かった。

 語り手には何かしら芽生えるものがあったようですが、この引用の1行空けた次の段落で、「アイツ」の葬式があると自宅に連絡が入ります。語り手は、一緒にゲームを攻略していた時期の「アイツ」とのやり取りを思い出します。

   一度、自分でゲームをしたいと思わないのか? と聞いたことがある。不器用だからうまくコントローラーが操作できなくてって困ったような顔をしていた。だから、コマンドを早く正確に打てるのが羨ましいって言っていた。

   いつかは自分もゲームを作りたいんだ。でも、考えることはできるけど形にするのはどうもできなくて。だから一緒に……。

 「アイツ」から「コマンドを早く正確に打てる」と評されているのは、語り手です。そして「アイツ」は、自分が「考えることはできる」ゲーム作りを「形にする」ために、語り手の力が必要だと誘います。しかし、その後、全然会わなくなったことから、この誘いには乗らなかったのでしょう。

   久しぶりにアイツの部屋に入った。膨大な参考資料とモノが所狭しと置かれたその部屋は、あの頃と何も変わってなかった。

 1段落目と同じ文章が、18段落目にも登場します。ここで回想から現在に戻ったのでしょう(17段落目は19段落目とつながりがありそうですから、17段落目も現在だろうと考えられます)。1段落目ではノスタルジックに感じられた「あの頃と何も変わってなかった」という文が、18段落目では「いつかは自分もゲームを作りたいんだ」という「アイツ」の思いがずっと変わっていなかった、というふうに取れるようになっています。

   今からでも、追いつけるだろうか?

 これで追いついた、とする具体的な目標は定かではありませんが、「アイツ」に追いつきたいと語り手が思ったところで、この小説は終わります。



#9 海から海へ 川野
http://tanpen.jp/200/9.html

 この小説は「僕」を語り手とした一人称小説です。この「僕」は「自営業者」で、「子どもたちの待つ家」があります。

   遠浅の海に足を浸しながら、ここにいるアサリの数を考える。広さを何平方キロと仮定し、などとフェルミ推定を使うよりも漁協に聞いたほうが早いのだろう。この海に棲みついている数より、潮干狩りのために撒いている数のほうがきっと多いのだ。

 そんな「僕」は、遠浅の海に足を浸しています。この小説には空想はあっても回想はないので、ずっと現在を描いています。アサリの数を考える中で潮干狩りのことに触れているので、潮干狩りができる遠浅の海にいるようです。また、誰かと一緒だという記述は見当たらないので、独りでいるのでしょう。
 「フェルミ推定」という語句が登場したので、Wikipediaから引用しておきましょう。「実際に調査するのが難しいようなとらえどころのない量を、いくつかの手掛かりを元に論理的に推論し、短時間で概算することを指す」もののようです。「広さを何平方キロと仮定し、などとフェルミ推定を使うよりも漁協に聞いたほうが早いのだろう」という文がシャレになっているのがわかります。また、Wikipediaには「コンサルティング会社や外資系企業などの面接試験で用いられることがある」とも書かれており、上の引用から1行空けた次の段落で面接の話が出てくるのと関連があります。

   Wikipedia - フェルミ推定
   https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%9F%E6%8E%A8%E5%AE%9A

   もしも面接官を務める機会があれば、遥々とアメリカ西海岸から日本まで旅をしてきたホンビノス貝の気持ちを考えましょう、などと小学生向けのような質問を投げかけたい。何の能力を測るのかは分からないが。

 「ホンビノス貝」については、1段落目ですでに「水揚げが低迷するアサリのかわりに、遠い海のかなたから船底に付着してきたホンビノス貝が、この海の新しい名産品になっているのだと聞いた」として登場しています。この2段落目には、1段落目で登場した「フェルミ推定」と「ホンビノス貝」の話題が引き継がれているのがわかります。また、「何の能力を測るのかは分からないが」と、1段落目に引き続き、この段落でもシャレが出てきます。「一昔前に採用面接で流行ったというフェルミ推定が実際にどんなものか自営業者の僕が知るはずもない」という、自営業者だからフェルミ推定を知るはずもない、という決めつけもシャレでしょう。(Wikipediaの「ホンビノスガイ」の項目には、「2017年には千葉県が「三番瀬産ホンビノス貝」を千葉ブランド水産物に選ぶまでになった」という記述があるので、「僕」がいる遠浅は千葉にある海なのかもしれません)

   Wikipedia - ホンビノスガイ
   https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%B3%E3%83%93%E3%83%8E%E3%82%B9%E3%82%AC%E3%82%A4

   深く冷たい海の上を進み、海流に揉まれながら海中の国境を越えていく、そのあいだに貝は何を考えて……といっても高度な意識も視力も持たない貝たちは、異存もなく異国の海にあっさりと慣れ親しんだのかもしれない。

 2段落目で「遥々とアメリカ西海岸から日本まで旅をしてきたホンビノス貝の気持ちを考えましょう、などと小学生向けのような質問を投げかけたい」と語っていた「僕」ですが、3段落目では自分で考えはじめています。シャレが続いているわけですが、「そのあいだに貝は何を考えて……といっても」と、「ホンビノス貝」に入れ込みはじめた思考を制止し、4段落目では、

   遠浅の海に足を浸しながら考える。浮遊する稚貝たちが足にしがみついて、このまま僕が陸に上がれば彼らは干し貝になる。

 と、再び海に足を浸している自分に注意を戻し、これ以降、シャレは姿を消します。自分に注意を戻したところで、今度は自分の足に「しがみついて」いる「稚貝」のことを考えます。この「稚貝」が「アサリ」のことなのか「ホンビノス貝」のことなのか、ここではわかりませんが、5段落目でそれがわかります。

   稚貝たちと僕を外洋へ連れ出すような大きな船が、この干潟には乗り入れてこないのなら、かわりにカヤックでも浮輪でもいいから外洋へ、どこか遠くの海へ流されていき、どこかの見知らぬ干潟へ流れ着きたい。いや、思い返してみれば自分がいま立っている干潟が、いつか辿り着いた見知らぬ干潟なのだと気がついた。生まれる場所も暮らす場所も自分の意志では選べない、そんなのは貝にも人にも当り前のことだ。

 「外洋へ連れ出すような大きな船」というのが、3段落目に出てきた「岩礁や護岸でなく船体だった」のことを指していると考えられるため、ここに登場する「稚貝」は「ホンビノス貝」と考えていいでしょう。ここでは「僕」と「稚貝たち」がワンセットで考えられており、3段落目まではシャレの範疇だったものが、本気めいています。さらに、この段落の後半では、「いや、思い返してみれば自分がいま立っている干潟が、いつか辿り着いた見知らぬ干潟なのだと気がついた」というふうに、「僕」は「ホンビノス貝」とほとんど同化しています。

   海水に流されて稚貝たちは再び沖へ向かった。僕はもうどこへも向かわずに、子どもたちの待つ家へ帰る。

 「ホンビノス貝」と同化しかかっていた「僕」ですが、「稚貝たち」だけが沖に流されたため、また独りの人間に戻ります。そして、人間に戻るとともに「ホンビノス貝」のことを考えるのをやめ、家に帰ることにしたところで、この小説は終わります。
 ところで、「生まれる場所も暮らす場所も自分の意志では選べない、そんなのは貝にも人にも当り前のことだ」という文が気になります。生まれる場所を選べないのはわかりますが、どうして暮らす場所を選べないと考えているのでしょうか。考えられる理由は、「僕」自身が、自分の意志で暮らす場所を選べなかった、ということです。このように考えると、「僕」は自分の意志で選んだわけではない「家」に帰っていくことになり、「どこかの見知らぬ干潟へ流れ着きたい。いや、思い返してみれば自分がいま立っている干潟が、いつか辿り着いた見知らぬ干潟なのだ」という異邦人感が、ぐっと増すように思います。



(#10へ、つづく)

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