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第200期を読む その1

 三浦と申します。
 「短編」初投稿が第2期なので、ずいぶん古株です。未だに「短編」に投稿している者としては一番の古株になります。

 さて、これから第200期の全作品を読んでいこうと思います(ただし私の作品は飛ばします)。何がどのように書かれているか、という観点で書いていくので、感想とは少し違うものになります(良し悪しは判断しません)。皆様が第200期の作品を読まれる叩き台にでもなれば幸いです。

 ※文字数が多くなるため、1つの記事で取り上げるのは2作品までです。
 ※尚、この一連の記事が全作品を網羅することは確約できませんので、ご容赦ください。(この投稿の時点でまだ書き終わっていないため。第200期終了までを期限としています。はたして…)

 それでは、#1から始めていきます。



#1 200 八海宵一
http://tanpen.jp/200/1.html

 この小説は以下のように分けることができます。

   現在:1段落目〜10段落目と、27段落目〜33段落目
   現在に至る経緯の説明:11段落目〜26段落目

 間に挟まっている説明がそのまま語り手の回想になっており、単なる説明で終わらない、感情面もフォローしたものになっています。
 さて、この小説の最も特徴的な箇所が、11段落目から12段落目にあります。以下に引用します。

   え? なんでそんなときに縄跳びしているのかって?
   いい質問だ。なぜぼくらが大縄跳びをしているのか、説明するとしよう。

 ここでは語り手が、大縄跳びをしている事情を知らない何者かに話しかけられ、それに答えています。頓呼法と呼ばれる技法の一種ですが、では、ここで語り手が話している相手は何者でしょうか。

   「誰だよ、引っかかったの!」
    体育館横で何度となく聞いたセリフ。

 この引用のように、この小説では耳で聞き取れる台詞は鉤括弧で括られています。しかし、先程引用した頓呼法を用いた台詞(11段落目)は鉤括弧で括られていません。つまりこの台詞(11段落目)は、語り手の心内で発せられているものだと考えられます。
 語り手がテレパシーを使う異能者だとわかるような記述は見当たりませんので、テレパシーという線は無視します。すると、この心内の台詞は小説の登場人物に対して発せられたものではなさそうだと考えられます。
 ところで、Wikipediaの「頓呼法」のページには、以下のように書かれています。

   語り手または作者が語りを休めて、そこに存在しない人物または抽象的な属性や概念に直接語りかける、感嘆の修辞技法のこと。

   Wikipedia - 頓呼法
   https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%93%E5%91%BC%E6%B3%95

 私は以前に、問題の台詞(11段落目)は頓呼法と呼ばれる技法の一種だと指摘しました。そう、私はそもそも、この台詞は小説内に存在しない人物に向けて語られていると考えており、その相手とはずばり、読者であると考えているのです!
 え? そんなこと説明されなくても普通にわかってたって?
 ……
 で、では、どうして語り手には読者の声が聞こえたのでしょう。
 しかし、その理由と考えられそうな記述を小説内に見つけることはできません。11段落目で読者の声を聞いたはずの語り手は、12段落目以降、そんな出来事などなかったかのように振る舞ったまま、語り終えてしまいます。
 え? 小説の中に見つからないなら小説の外に理由があるんじゃないかって?
 ところで、この小説が掲載されているサイト「短編」についてご存知でしょうか。TOPページには、こう書かれています。

   「短編」は、1000字以内の創作小説を毎月募集し、読者投票により優秀作品を選出するサイトです。

 第1期は、2002年8月20日に始まりました。今回で、なんと200期になります。200期……200……そう、この小説のタイトルでもある「200」です。
 これで、語り手に読者の声が聞こえた理由の目星がついたのではないでしょうか。
 この小説は「短編」に捧げられたものであると、私は解釈しています。大縄跳びが「短編」をあらわし、縄を飛ぶ小学生が「短編」参加者をあらわしているのだろうと。

   確かに200回はギネスじゃない。
   でも、誇れる記録だ。

 誇れることだと思います。
 「短編」200期、おめでとうございます。



#2 鮎 わら
http://tanpen.jp/200/2.html

 まず、冒頭の一文を引用します。

   崇がサイコキネシスに目覚めた日、大分県の玖珠川ではアユ漁が解禁された。

 「玖珠川(くすがわ)」という川の名前が登場しました。例によってWikipediaから引用します。

   筑後川水系の支流で大分県玖珠郡九重町、玖珠町および日田市を流れる一級河川。
   また、宝泉寺温泉、湯の釣温泉、天ヶ瀬温泉など、流域には温泉も数多い。

   Wikipedia - 玖珠川
   https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%96%E7%8F%A0%E5%B7%9D

 「サイコキネシス(念力)」という語句も登場しましたので、こちらもWikipediaから引用しておきましょう。

   超能力の一つで、意思の力だけで物体を動かす能力のこと。

   Wikipedia - 念力
   https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%B5%E5%8A%9B

 玖珠川の鮎の解禁日は5月20日のようですので、崇がサイコキネシスに目覚めた日も5月20日ということになるでしょう。
 この小説は「崇」を視点人物とした三人称で語られますが、以下に引用するように崇の心内の台詞も出てくるため、一人称寄りの三人称ということになります。

   サイコキネシスである。一人息子がサイコキネシスに目覚めたというのに、親父は大分まで一人で釣りに行きやがった。

 崇が男性であることは記述されていますが(「一人息子が」の箇所)、年齢に関する記述はこの小説内に見当たりません。両親と同居していること、洗い物をすることと洗濯物を干すことを日常的に任されているらしいことから、小学校中学年以上くらいの年齢かなと推測できます。

   一人息子がサイコキネシスに目覚めたばかりだというのに、なに順応してんだこのクソババア。

 そして上の引用のように母親に対して悪態をついていることから、思春期の少年だろうとも推測できます。思春期は、医学的には「第二次性徴の発現の始まりから成長の終わりまで」と定義されているらしく、また男子の第二次性徴の発現が始まるのは平均で11歳6か月ということなので、崇もだいたいそのくらいの年齢なのでしょう。

   洗濯物に含まれる水分子をひとまとめにして洗濯物から切り離せば数分とかからず全部乾くのだが、母には言わないでおいた。

 さらに上の引用のように分子を認識できているので、中学生以上になるでしょうか。
 さっきから崇の年齢にこだわっていますが、というのも、「一人称寄りの三人称」というこの語り口に、思春期の少年という視点人物がよく合っていると私は考えているからです。

   微粒子レベルで汚れが取り払われていく食器たちに目もくれず、母はそう言い残して洗面所へ去った。
   台所のシンクに両手を翳しながら崇はそれを見送る。一人息子がサイコキネシスに目覚めたばかりだというのに、なに順応してんだこのクソババア。

 上の引用箇所を一人称で書く場合、私なら以下のように書くでしょう。

   目覚めたばかりのサイコキネシスで洗い物をしてみせてるっていうのに、お母さんは目もくれずに洗面所に行ってしまった。
   なに順応してんだこのクソババア。

 (恣意的な変更ではありますが)「微粒子レベルで汚れが取り払われていく食器たち」の箇所が抜け落ちています。一人称というのは語り手の五感と感情を経由していることが前提となっているため、一歩引いた視点で小説の最初から最後まで進行することはあまりありません(ハードボイルド、というジャンルではそのように進行していきますが)。一歩引いた視点が確保できないとなると、「崇は染み付いた固定スキルの弱気を発動せざるを得なかった」というような記述は抜け落ちることになるでしょう。
 私はつまり、このような一歩引いた視点が、思春期である視点人物の両親に対する距離感とよく合っていると考えているわけです。



(#3へ、つづく)

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