第93期 #22
空を覆う厚い雲が風に撹拌され、その向こう側で太陽はゆるやかに明滅していた。
田には水が張られ、植えたばかりの稲が等間隔で整列している。水面は日光をやわらかく反射し、その中で稲は幼い掌を太陽に手を伸べるかのように映り込んでいた。
今年は豊作になるだろう。私は手元の文庫本に目を戻した。
乾いて黄ばんだ古書の、頁をめくる音は格調高く、置いた手は黒ずんでいてとてもつりあいが取れていなくて、ひどく不細工にみえた。手は小さくて指も短い。私は『劣悪』の二文字を傍線で囲み、溜飲を下げた。
携帯がメールの着信を知らせて震えた。待ち受けには泥の中に横たわる双子の子猫がいる。メールは汚物用フォルダに届いていた。
『いまどこ』
出先だから、と簡単に返事をしてから機械的に削除する。電波を介しただけでもケガレが伝染しそうで、携帯電話にすまなく思う。
『でんわでろ』
受信とともに汚物より着信。
「今あんたの家の前」
ペンを持つ指先に力がこもる。ペン先が『こ』の文字に穴をうがち、頁を越えて『ろ』を貫いた。
「出先のわりに静かじゃない。風の音きこえるし」
頁をめくると、溜まったインクがこすれて『せ』の字だけを黒く汚していた。
「まあいいや。今からそっち行くね」
誓いを立てた「いつの日か」が今日であることに、まだ迷いがあった。早まる鼓動とは裏腹に逃げ道を探し、覚悟を決めないための理由はいくつも見つかった。
「場所わかるの?」
「うん、だいたいわかるから。当ててみようか?」
そのとき電話の声をかき消すように、帰宅を促す放送が大音量でながれた。まったく同じ放送が受話器からも聞こえた。私は反射的に電話を切った。
――啓示。
なに者かが私をみている。
《裏の田んぼ》
電話を切る直前、そんな声を聞いたような気がした。
《……引いた?》
そんなことを言っていたような気もした。
猫はどちらもふわふわでまあるくて、かぼそい鳴き声には聞いた者に慈愛の責務を負わせる響きがあった。
猫の片割れは目の下に私と同じ傷を持っていた。その顔を集中的に砕いたせいで、今も右手がじんじん痛い。赤と黄の泥の中に沈んで横たわる双子は、もう携帯の画面の中にしかいない。
細長く伸びた無数の掌に引きずり込まれるようにして太陽は沈み、青灰色の闇がかぶさるように垂れはじめた。携帯電話を田にかざすと、猫は薄明るい夜の中にまぶしく浮かび上がり、前ぶれなしにふっと消えた。