第93期 #21

精神の統一

 ある日、自分のものだったはずの名前を名乗る男が現れた。
 彼女が見知らぬ男と歩いているのを見かけて、僕は声を掛けた。
「こんにちは」
「やあ、こんにちは。君は誰だい?」
「○○だ」
「ん? 僕の名前が○○だよ。君の名前は何ていうんだい?」
「おれが○○だ」
「彼は○○よ。彼は私の彼氏なの」と、男の腕に絡みつく彼女が言った。

 僕は二人の円満な後ろ姿を見送った。ドッペルゲンガー? いや、あれは僕とは違う人間だから、違うだろう。僕ももう死期が近い、ともあまり思えない。
 知らぬ間に、彼女が違う男と付き合っていて、それが今までもそうだったようで、僕は自分の名前と彼女を、いつの間にか盗られていた。
 盗られていた。
 本当に「盗られていた」という表現で、あっているのだろうか。
 僕はケータイを取り出した。心做しか重く感じた。見ると自分の名前が電話番号と共に電話帳に移っていた。その番号に電話を掛けると、またさっきの男の声がした。
「もしもし、こんにちは。君は誰だい?」

 自分のものだったはずの名前が、段々と他人のもののように思えてきた。元々そうだったようにも思えてきた。彼女も、前から彼の女だったのだ。元カノ、でもない。
 さっき、彼女は僕という人間自体も知らなかったのだろうか。だとしたら、僕らは赤の他人だったのか。
 そうか、これは彼の名だったのか。じゃあ、僕の名前は、何だっけ。

 駅前から近くの神宮に向かった。しかし名前がないと、願い事も聞いてもらえないのではないかと心細くなった。僕は、自分の名前が思い出せますように、そしてもう何も無くなりませんようにと、お願いした。
 神宮の砂利道から外に出ると、歩道で鳩が地面をついばんでいた。駅前にパン屋が見えるから、おそらくそこでパンを買った誰かが、鳩に少しやっている。人を怖がる素振りも見せず、地面ばかり突付いている。そんなに食べて、食べて、どうする?
 盲者用のタイルの凹凸を、爪を引っ掛け歩くのがいた。パン屑が落ちていたのか、僕のつま先の前までやって来た。僕はそっと両手を差し出して、鳩の翼を包むようにして捕まえた。胸の高さまで持ち上げて、小さな頭を見つめた。鳩は無理矢理逃げようともせず、何が起きたのか、どうしていいのか分からぬように、僕の手の中で捕まっている。

 お前達には、僕が誰だなんて関係ないよな。

 鳩は首を右左させていた。後ろから抜いていく女の人達が、驚いていた。



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