第91期 #18

愛のしるし

 深夜二時、雨粒の尾は闇夜を細長く刻みながら硬質の地表を叩き濡れた鉄のように滑らかで鋭い光を反射させた。少女は名札が刺されたままのパーカーを引掛け傘と煙草を手にマンションの屋上へ上がった。暗闇に目を凝らし向かいのマンションの屋上に今夜も男性がいることを確認すると息を吐き、煙草に火を点けた。白煙を魂のように吐き出し、首から下げた鍵の、水分を含んだ紐に擦れたその首筋をさすった。向かいの男性は柵に手を掛けたまま静止していた。少女は母を想った。
 父は死んだと母にそう教えられた。嘘だとわかっていた。あえて確かめるような真似はしなかった。ここのところ帰りが遅いこと、気分が明るくほのかに色づいた表情を見れば、母にとって今が『だいじなとき』なのだとわかっていた。
 向かいの男性が緩慢に身を乗り出し倒れ込むように落下した。少女は身をすくめた。建物の陰に消えた男性の、固いアスファルトと肉体が衝突し骨が砕け内臓が破裂する終末の音を聞いた気がした。少女は急いで階段を降り男性の許へ向かった。
 男性は照明を避けるような暗がりにいた。仰向けに倒れ潰れた顔には影がかかっていた。目蓋が僅かに痙攣している。少女は屈んで耳を澄ます。スカートの裾が水溜りに触れ泥水を吸い込んで茶色く汚れた。少女は雨音の中に微かな喘鳴を聞いた。まだ生きている、そう知るとどうしようもなく胸がときめいた。ひとつも見逃すことのないよう焼き付けるように目を見開く。すると視界の隅に人影を感じた。人影は半透明で、その顔は靄がかかったように薄ぼんやりとしていた。
 ――救急車を呼ぶのかい。
「よんだほうがいいの?」
 ――任せるよ。
「じゃあよばない。これはあたしのものよ」
 ――死んでから、救急車を呼んでくれないか。
 少女は男性から目を離さない。呼吸は微弱になっていた。
 ――お駄賃をあげるから。私の財布にはお札が五枚入っている。一枚持っていっていいよ。
「それならやる」
 ――ありがとう……。
 それきり人影は沈黙した。男性の呼吸が止まり、少女は溜め込んだ息を長く吐き出した。辺りにはもうあの人影はいなかった。百数え、確かに死んだという確信を得ると携帯電話で救急車を呼んだ。男性の懐には五万円入っており、少女は一枚抜いて元に戻した。

 少女はこのお札を生涯の宝と決めたが、翌年、薄い花柄のパーカーを購入し、代わりに五円玉をパウチしてお守りとした。



Copyright © 2010 高橋唯 / 編集: 短編