第90期 #17

男は風船を毎日作っている

 思い出すのは桜餅。松尾は寝床に飛び込み<うっとり>の最新号を開いては、ライター久保内象の紹介する浅草PinKの桜餅を眺めていた。

 五年前、働いている風船工場の社員旅行で初めて東京へ行った。浅草猿若町での芝居見物である。神田川を柳橋経由で隅田川にでるプランであった。

「浅草旅行なんて古いよ、まったく主張できない労働者はツライよ」
「きっと幹事は困った慌てものなのさ」
「東京といえば浅草なんて」

 勤め人一同、舟の宴会席でもグニュグニュ言っていたが、案内嬢のつけている香水から東京の匂いがしたことと、酒に皆酔いはじめて、松尾も隣から「鰹のたたきを半分もらってくよ!」と突っつかれたり、無礼講になっていった舟内では、部長が服を脱ぎはじめ、
「セクハラ!」
とかけごえが飛び出す始末。
「ぼくちん知らない、ぼくちん知らない」と甘えてみせる部長の姿に全員失笑したのだった。

 芝居小屋に到着すると、切符のかわりに購入したお面をかぶる仕組みで、松尾は鼠を選び、席は自由だったので誰が社員なのかわからなくなった。鼠の松尾の隣にはウサギの女が座って、案内嬢よりも上品な匂いがした。

 チェコの前衛芝居らしかったが、松尾は芝居も初めてみる。内容はつかめなかったが、小道具の風船が松尾の作っているRe:D型の風船だったので、それが誇らしく、どうしても我慢できず、休憩に入ると、ウサギの女に

「アレ俺つくってる風船」と囁いた。「そう。そうなの」と彼女はたいして興味なく返事をして立ち上がり、まもなく戻ってくると松尾に和菓子をくれた。

「これよかったら。花が冷えてておいしいよ」

桜餅だった。

「じゃ俺も風船やるよ。Re:Dってゆうんだ」

 松尾は膨らんでないゴム風船を渡した。女と松尾のやりとりはそれっきりで、芝居が終ると仮面を脱いで浅草から銀座まで歩いた。自由行動になって、松尾は西沢書庫という洋書屋に、常連のような顔つきで入っていったが洋書屋に入るも初めてだった。そこで慣れてるようにダフニスとクロエの絵葉書と、唯一置いてあった「うっとり」創刊号を買って自分への東京みやげとしたのである。

 毎月15日になると、定期購読している「うっとり」が松尾の部屋へ届く。風船工場でクタクタになるまで働いている松尾は帰宅と同時に寝床へ飛び込むのだが、今日届いた最新号を開くと、あの桜餅が紹介されていて、つかの間、松尾の部屋に東京の匂いが流れたのであった。



Copyright © 2010 宇加谷 研一郎 / 編集: 短編