第90期 #18
出稼ぎ同然に家を出た社会人一年目の私。起き抜けにヨーグルトを食べてすぐに猛烈な腹痛と便意をもよおし、そのままトイレで上から下からげえげえと吐き続けること一時間、熱っぽく朦朧とした意識の中、この原因はヨーグルトにあると直感し、冷蔵庫に偉そうに鎮座せしめるヨーグルトを三角コーナーにぶちまけるため手に取って、そこにおじさんをみた。
「なにか」
おじさんは顔を覆うような白い顎鬚を蓄え、赤いエスキモー服を着ていて、眉間の深い皺と硬そうなもみあげが少し怖い。この派手なおじさんが容器の中で胡坐をかき、甘納豆を長い箸でつまんでいた。私の腹痛はこのおじさんに因るものに違いない。
「ヨーグルト食べたらお腹こわしたんですけど」
そう声をかけた拍子におじさんの箸から甘納豆がぽろりと落ちた。
「……この甘納豆、生きちょる」
そうして何事もなかったかのように拾い上げて口に含んだ。
「あの、」もぐもぐしてんじゃねえよ。
声をかけるとおじさんはまた豆を落とし「生きちょる! 生きちょる!」と狂喜した。
私は扉を閉めた。そして布団で丸まって眠った。
明くる日。何ひとつ解決していない事実に思い至り、意を決して再び冷蔵庫に向かった。
中には、
「なんだいアンタ」
牛柄のマントを纏った細身のお姉さんは長く伸びた前髪をかきあげ、口元のキセルをぷかりとくゆらせている。
「おじさんを知りませんか」
「モリナガさんならその辺にいるんじゃない、知らないけど」
お姉さんはひき肉にどっかりと腰を下ろし、挑発的に足を組んだ。豊満な胸元、深いスリットの入った振袖から覗く白い足が眩しく、私は思わず目を背ける。その視界の片隅でぐらぐらと卵は揺れ出し、ぱかりと割れて幼女が生まれた。羽の生えたランドセルをしょっている。幼女は、肌も露な水着に身を包み、丸い身体をいっぱいに反らしてうーんと伸びをした。膨らんだ腹と平らな胸とが作用し合ってお互いを強調する。はちきれんばかりのゼッケン、「3―2 ひかり」。
「お姉ちゃん、誰このひと」ぱたぱた。
「さあね」ぷかー。
幼女は羽を揺らして空を舞う。いなせなお姉さんは輪っかを吐くのに余念がない。私は扉を閉めた。
ヨーグルトとひき肉と卵を日にひとつずつ買うことを、私は決めた。新鮮な物は奥にしまい、古いものから食べる。
大丈夫、今日もきっといる、そんなおまじないを冷蔵庫の扉にかける午後十一時。賑やかな夜がはじまる。