第89期 #14

π

 昼間。犬の散歩の最中。上空は鈍色。三月の始。春めいてない。
 坂道をのぼる。
 私はここをよもつひらさかと呼んでいる。先週迄工事をしていたここはアスファルトがあたらしく真黒。この坂を自転車でくだるときタイヤのゴムが地面を這う感触がなめらかだ。
 坂道の頂点の脇に児童公園。私の犬は電信柱の根元を嗅いでいた。テリトリーを確認しなければならない習性はかなしい。

 公園に女の子がいた。砂場にディレクターズチェアを置いて座っている。二〇歳くらい。彼女は曇天に不釣合いな草原色のスウィングトップ。買ったばかりの春物をすぐに着たくてたまらずあわてて外出したのかもしれない。
 私は彼女と目が合った。犬が彼女の方へ歩き出す。彼女が話しかけてきた。
「かわいい犬」
 経緯上、私も話した。私は実直なのだ。氏名、二七歳、女性会社員であることを告げた。
 彼女が言う。
「私の名前を決めたなら仲間にいれてあげる」
「πは?」
 彼女の肩甲骨までの髪は手入れを怠っているようで外撥ねしていた。記号のπみたいだった。
 彼女は良い名前だと褒めてくれた。

 それから三〇分も話した。風がつめたくなってきたので帰ることにする。犬が凍えている。πは夕暮迄ここにいるらしい。
 公園の出口に男性がいた。男性が話しかけてきた。
「僕は砂場の姫の衛兵です」
「まあ」私はおどろいた。
「そういう役割をすることにしたんです。夢中です。母親の顔をわすれるくらいに。――ところであなた恋人は?」
 いません。ひとり暮らしはさみしいです。だから犬を。家族は好きじゃなかったのに今ではありがたみが分かります。もうこんな年齢。別に恋と齢とは関係ないです。周囲の雑音が脈絡をこじつけているだけ。でも、これでも昔は男の人からかわいがられることもあったんですよ。
「――π姫はきれい」
「はい。僕は五年もお傍にいます」
 私たちは凡庸な会話をたのしんだ。
 公園からとおざかる最中。ふりかえると衛兵がπ姫の肩に橙色のフリースのブランケットをかけてやっていた。

 役割をあたえられたことに安心したためかその夜の睡眠はとてもふかかった。私は彼女の名付親。
 はてしない闇の底におちてひとりもがいているような気もするがちがうようにも思える。ところで自分を実直などと評するのは恥かしいことだった。3.14159265358……明日からは毎日π姫に本当はずっと終わりなく続くπの小数点以下を一桁ずつ教えよう。



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