第89期 #15

窓と櫛

 奈央が告白されたらしい、と女子生徒は笑いながら誠に告げた。それ以来、誠は隣を歩く奈央の横顔を綺麗だと感じるようになった。
 奈央が隣の家に越してきたのは誠が十歳のときで、それから四年間、誠の窓から二メートル先にその窓はあった。
 時刻は七時四十分。誠は、朝の陽光とレースのカーテンに遮られた向こう側にてきぱきと身支度を整える奈央の姿を描いた。耳を澄ませばCDの音が柔らかく響いている。七時四十五分。きっかりに窓が開き、奈央が顔を出した。
「おはよう」
「おはよ。今からそっち行くね」
 ほどなく呼び鈴が鳴る。玄関では奈央が母と談笑していた。
「奈央。寝癖立ってるよ」
「うそ」
「ほんと」
 誠は櫛を奈央に差し出した。櫛が奈央の髪を梳く。癖のない細い髪は抵抗なくさらさらと流れた。
「ありがと。いこっか」
 そう言って差し出した櫛にちぎれた奈央の毛が一本絡まっていた。
 その晩、夜更けに、誠は窓の開く音を聞いた。おそるおそる開けたような弱々しい音だった。逡巡するような間を空けて、窓は密やかに閉められた。誠は窓を開けた。だが奈央の窓は遮光カーテンにぴたりと遮られ、その表面は鏡のように誠を映していた。

 翌朝。
「夕べ、窓開けた?」
「え、ううん。開けてないよ」
「そっか」
 誠のときめきは日増しに強まり、口を開けば全てが暴かれてしまいそうで、多くの言葉を飲み込んでいた。
 その晩も誠は奈央の窓が開く音を聞いた。奈央が呼べば窓を開けることができる、と耳をそばだてても、奈央の声が聞こえることはなかった。

 ある晩、誠は、窓を開けて奈央と話そうと決意した。汗ばんだ手を拭い、粘ついた唾液を嚥下して窓をそっと開く。奈央の窓は閉じられていたが、その内側でCDの音が微かに響いていた。誠は奈央の寝息を聞き取るべく耳を澄ました。
 奈央の部屋では何かが断続的に軋み、軋む音に合わせるようにくぐもった声が、押し殺してなお洩れてしまったような声が紛れていた。甘く呻く、少し変質したそれは奈央のものだった。
 誠は窓を閉めた。サッシを滑る音が夜の闇に響き渡る。誠の瞳に、櫛の歯とうねって絡まり合う毛が映った。

 翌朝。
「おはよう」
「おはよ」
 誠は奈央に櫛を差し出した。奈央の細い指が櫛に絡まった毛を挟み、するりとたやすく抜き取る。褐色の毛は奈央の指先で揺れ、朝日を受けて金色に光った。
 誠は奈央の毛が指先から離れて落ちゆく様を虚ろに見つめた。



Copyright © 2010 高橋唯 / 編集: 短編