第89期 #16
忘れたほうがよい。でも、忘れない。忘れられないのだあああ、どうしようもないことを、なぜ、いつまでも消せない記憶を引きずって生きていかなきゃならないのか?
南春朗は裏切られた。裏切られて傷ついて死ぬんじゃないか。本当に自殺する恐怖に毎日胃が痛くなる。春朗は死にたいわけなどない。春朗は、自分は健康で何も不安はない、そう、考えている。それどころか、裏切られた非は相手にあったのだ。
それが、悔しい、憎い、相手の裏切りは致命傷ではないああああ、ただ、忘れられないだけなのだ。
裏切られた自分が馬鹿だったのかも知れない。だったらすこし利口になって平気な顔して生きていけばいい。そうだ、平気な顔で生きている。生きてきた。
それなのに、心の奥に何か悲しみが黒くたまってる。
信じたのが悪いはずがない。裏切ったほうが悪いのだ。裏切ったほうだってそうたいしたことではない、軽い気持ちでもうすっかり忘れてしまっているかもしれない。それなのに、春朗はいつまでも信じたことを悔やんでいる。
そんなつまらない、損な事を続けているのは無駄だ浪費だ。よくわかっているのだ。そうして、表面に出る記憶ではもう忘れている。
それなのに、こうしてあああ、明日の試験が大事なときに、こんな夜に、裏切られた思い出が暴れて、勉強が手につかなくなっている。
ダメだ。こんなことでは置いてかれて、もっと惨めな思いをするぞ。
どすぐろい衝動が大嵐の海のように逆巻いて目の前がぼぉーっと、ゆがみはじめる。
ダメだ。本当にダメだ。この苦しさを断ち切らない限り将来の幸せは粉々にはじけ飛んでしまう。
なにがある。目の前に浮かんできたのは金属バットだ。そうだ、ゴルフバックもあった。ヘッドのおもいサンドエッジとドライバーを残してあいたところへバットを入れた。
寝ている男をワインの壜で殴った事件があったなぁ……。どこを狙ったんだろう。やっぱりこめかみかな。ワインの壜でゴルフボールを打つように耳の辺りに狙いを付けて。
裏切ったほうが悪いんだ。それをゆるしていたのも悪い間違いだった。
すっきりと復讐してけりをつけておけばこんなに、苦しむこともなかったはずだ。
さあ、すっきりさせてこよう。それから、じっくりと勉強すればいい。それくらいの時間の余裕はまだ残っている。
そう決心した。春朗は相手の寝ているところを狙うつもりで。ドアを開けた。夜の街を歩き出した。