第89期 #10
だいぶこうして信号待ちをしている気がする。海沿いの道で、後ろからさざ波の音が静かにして潮の匂いがする。わたしは通学鞄を身体の前で抱えて赤を表示している信号機を見つめている。
車はまったく通らないが信号無視はしない。砂浜が近いので地面はうっすら砂粒に覆われていて、足を動かすたびに、じに、じに、と鳴る。霧が深く、遠く向こうの岩山がもやっている。ごくたまに昔の出来事の様に遠くで大波が、ごかあぁぁ、と割れて崩れる音が聴こえる。
鳥が一匹静かに飛んでいた。このしけった海風の中を羽ばたけば濡れるだろう。それが乾けば結晶化された塩が羽根に残るだろう。ずっとここに立っているわたしの髪も濡れかけている。もしかしたら塩をふくかもしれない。ただ立っているだけなのに…
以前もこうして信号を待った事がある。誰かの田舎に一緒に行かせてもらった時で、葡萄畑で袋一杯に貰った帰りだ。慣れない山道と薄いビーチサンダル。信号はなかなか変わらなかった。試しに裸足で地面に触れたら温まったコンクリートがぎりぎり我慢できる暑さで、むずがゆい様な疲れがまぎれる様な感覚を覚えた。
頭の中で、柔らかい桃色のものを、ぎにいいとひっぱる事を考えている。丸い身体で目も鼻も口も何も無いそれは生物かどうか知らない。ただそういう存在であり、痛覚が存在しない様なのでわたしは好きなだけそうするのだ。飽きたら透明の箱の中に押し込む。箱はそのものの体積より小さいのでぐいぐい押してもどうしてもはみ出てしまう。
口笛を吹こうと思って何の曲にしようか思案した。ひとつあああれが良いなと思った曲は、その印象が浮かぶばかりで肝心の旋律が思い出せなった。だから単音を幾つか吹いたが、止めた。最後にもう一度短く鳴らしたら思いがけずその余韻が好ましかった。
スローモーションの様に水しぶきを散らしながら通り過ぎるバスの車内に、電気はついておらず乗客はいなかった。それに気を取られて気づかなかったが、後ろから小学生低学年くらいと思われる子供の声が聞こえた。二人の子が何かこしょこしょ話している。楽しい気持ちを抑えきれない感じだ。黄色い通学帽を被っているのではないだろうか。「…象がね」「ぽあああんって…」「二個!」等ときゃふひゃふ言いながら。
海鳥の声が一鳴き聞こえた。
霧は相変わらず深く、車が通る気配も無く、
信号はまだ変わりそうもない。