第89期 #9
進行方向、車両の扉の開いた先に前進しようとして引き止められる。ぐん、と後方からの強い力に身体が引っ張られて足がもつれかかった。
「またか」
転びそうになったのをなんとか堪え舌打ちをして振り返れば、そこには扉の取っ手に引っかかるTシャツの裾。鉄製の棒に負けて、白い生地が情けなく伸びきっていた。
この駅で下車する乗客は多かった。しかも僕と同年代の男子ばかり。目的は皆同じだろう。
扉が開いてからしばらくが経っていて、このホーム内の人並みはまばらになっていた。
恰幅の良い駅掌が野太い声を上げて車両の発車を告げる。隣りのホームからのざわつく人声や雑踏をも押しのけるような派手な音を立て、僕が降りてきた列車はドアを閉めた。
「そんなに僕のこと好きなの、なんて」
息もしない固く冷たい金属に、そんなことを冗談めかしに言ってみた。あたりまえのごとく返事はない。引っかかったTシャツを取っ手から外すと、裾はやや生地が伸びて変形したまま戻ってきた。
まるで、拒否されたみたいだ。
主語のないそんな感情が不意に沸いて、心を占める「寂しさ」の水位が上がってきたのを感じた。ジワリジワリと隙間だらけのスポンジに冷たい液体が染み込んでくる、そんな感じ。誰に、何に拒否されたのか考えたくもないし、考えたところで寂しくなるに違いなかったので深くつきつめたくはなかった。
それにしてもなんたる妄想。才ある詩人にでもなったつもりだろうか。「寂しさ」の水位だなんて、何を馬鹿げたことを。僕のどこに非凡な悲劇があるというのだろう。この幸せという生温い世界の中で生き、それを十分に理解しているはずなのに。
車輪と線路が擦れ合い、列車がゆっくりと動き出す。瞳を閉じると、消えた筈の、頬が受けた感触をまだ思い出せることに気が付いた。今朝の一瞬の鋭い痛みを。
「……かあさん」
誰にも気付かれることのないよう、騒音と雑踏の中で唇を震わせてみる。空気が漏れて皮膚がくっ付いて、けれども目頭が熱くならなかったことに安堵する。
一度深呼吸をして、僕は小さく群をつくる知らない仲間たちに遅れをとるまいと、目的の地へと歩き出した。
Tシャツの裾は伸び切ったままで、僕の両手は最低限の生活雑貨が詰め込まれた重い荷物を握りしめている。他には何も握れず、また握るべきものはそれらだけだった。そうして僕は、自分の頬に触れて感傷に浸りたいと思った弱い心を戒めた。