第88期 #19

ニューデイニューライフフォーミー

 記録した。私は異世界で生活していた。五年前から。
 従兄妹の七歳になる娘、台所で鳥の唐揚をつまみ食いして、指先についた油が、彼女の舌でなめとられるのを私は見た。彼女は母親である従兄妹の陰に隠れた。彼女はこちらを見つめていた。まだ子供を産んだことのなかった私、少女の仕草がかわいらしくて、彼女を攫いたいと思った。こういった、非道な発想の罰なのかもしれない。眠って目が覚めた時、私は今までとは違う世界にいた。
 旦那が言った。
「昨日の朝食はおいしかった」
 世界は形を変えたけれども、わずかながらも年月を過ごした私には旦那ができていた。世界の由無し事、成立ち方、いくらか知識は蓄えられた。けれど知ったと思った瞬間に知ったことに付随してまた知らないことが浮かびあがるのは以前と同じで、見通せたと思ったその矢先、ふたたび物事の輪郭は失われた。
 旦那のびっしりと生えた濃い眉毛についた糸屑(枕からほどけぬけた糸だろうか)を取ってやりながら、朝食がどうのだとかは無視、昨日にあなたが言っていたあなたのあなたが自殺したいという意見、決断は尊重できるし、そちらの方があなたにとって、きっと最良なのだろうと助言した。

 情緒という薄気味悪い得体の知れないものを押し殺したかっこうで、お前の代わりなんていくらでも居るというのに、今日の自分とは昨日選び出した可能性の中の無限の中のたかがひとつだというのに、そうやって現在と過去の線で結ばれた理路整然としたワークフレームの世界の中だけであぐらを掻いているから、未来に扇に広がっているふつふつと沸きあがる可能性に無頓着でいられる。
 と、旦那に言われた。

 夜、お酒を呑み過ぎてしまって、ノートパソコンを開きっぱなしのままでいて、居眠りをした。時計を見ると零時だった。あわてて、一階の旦那の部屋に向かった。
 私、椅子に深く座った旦那に近寄り、肩に手をさしのべ、言った。
「もう死んだの」
「まだだよ」
「まだなのね」
 まるで死んでないのが残念なような物言いだと旦那が感想を述べたから、私、いいえ、私は身近な人の死を見たことがないから純粋に好奇心が働いただけ、と答えた。あなたが死んでないのに失望、じゃなくて、死を見られなかったのが悲しかったの。
 旦那、そうか、と答えた。
 私、今日も旦那は死なないのだろうと思い、自分の寝室に戻った。そしてノートを取り出し、今日も旦那は死ななかったと記録した。



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