第88期 #18

夜光虫の海

満月の夜、ぼくは海辺に屈んで砂をほじくり返していた。夜光虫がいないか探していたのだ。
だけど夜光虫はいない。彼らは決まってちょっと曇った夜に現れる。こんな満月の澄んだ海に彼らの出番は無い。
ぼくは砂辺を一蹴りして立ち上がる。そもそも夜光虫とは別なところにぼくの本意はあり、それはもう波に洗われ消えた。ぼくを洗ったその波はもういない。次の次のそのまた次の波がもひとつ次の波を連れて星の皮膚をたゆませている。海と月と砂を踏む力、引き摺られる靴底にたまった貝殻のかけらと夜光虫のいない波打ち際の真っ暗な縁取。

消えた波の音は夜光虫も光らない浜辺から水平線を見据えるぼくに処女像を喚起させる。

彼女は白い帽子を目深に被り、月の下で絹色に浮かぶ体は遠目にも華奢に見えてぼくには眩しい。イメージはいつもすっ裸でぼくの目の前の重さを易々飛び越えてしまう。跳びはねたしぶきのように酸っぱい残影には箱のような體だけがあって、その中には理由も意思も音もない。
やがて彼女は歩き出す。暗い海風に服の裾をたなびかせている。波間の泡は弾けるけれど音は届かない。何もかも月の下の絹色の中。
ぼくの目の前で立ち止まった彼女は、言葉を発さぬままぼくの手を取り優しく握る。手の感触はぼくの中の受容体に電気信号を送り、ぼくは心の内で隆起するのを感じる。それは言葉となり、海辺の空気と消えた。音の無い波の底を漂った。

「帰ろう」と言った彼女の声はぼくの中にある記憶に直結する。波がざわつく。二枚貝が口を開く。
「おやすみ」と言った貝のことばはぼくの中にある記憶に直結する。音が消える。誰かが声を挙げる。
もう一度彼女の「帰ろう」の声を聞いたとき、ぼくの記憶は返らない波のように押し寄せ続ける動きを止められずにいて、ぼくはぼくの記憶の中に彼女を見つけた。
名前も顔も髪の匂いも知っている彼女は、ぼくの手を引き海の縁取りの向こうに消えようとした。ぼくは記憶の深海にこの海の音を見つけていて拭き取れない涙を満月の絹色の下に満たしていた。

ぼくは彼女と帰った。ぼくの知る海でぼくの踏んだ砂はぼくの耳を刺激したぼくの知る波に洗われ、ぼくの知る景色の中でぼくはぼくの事を知る彼女とあるべき場所へ帰った。
ぼくの知る夜光虫に灯された誰もいない海には満月が架けた絹色の梯子が伸び、波の上で脈動を続ける。
何もかもが、生きている姿を取り戻す。ぼくは彼女に「ただいま」の笑みを贈る。



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