第88期 #17

東京駅に似ている

 エンマ氏は厳格なピアノ教師に似ていた。
「天国行きの切符を渡す基準は善悪ではない」
 そう言って、女に向かって強い口調で続けた。切符が欲しければ微笑みなさい、笑顔で私を和ませなさい。
 女は困った。
「あたし、猿になった夫の肩に乗って浅草まで歩くことが夢でした」
 エンマ氏は動揺した。普通はすぐにニッコリ笑うからだ。猿の夫に肩車されたいという話も理解不能だった。

「残念だが、生き返らせることはできない」
「夫はもし肩車できないなら小説を書いて、その世界で猿の僕が君を肩車して歩くよと言ったのです」
「それで」
「問題は文才がなくて」
「ふむ」
「本当に夫は書いてくれるかを知りたいのです。ここで見守らせてください」

 エンマ氏は女を睨みつけた。そして笑った。大笑いした。

「よかろう。貴様に天国行きの切符を与えよう」
「天国よりも……」

 女は強引に列車に乗せられた。同乗者は少年と若い機関士だけだった。機関士は「笑わなくてヨカッタね」と言ったが女はふてくされていた。少年はずっとけん玉をしている。

 列車が止まった。花畑のイメージだった天国は東京駅に似てると女は思った。ビルヂングに案内されて入室すると、モニター付きの机から夫がみえる。
最初、女は嬉しかったがだんだん怖くなってきた。夫が他の女性と話すたびに震えがくる。見てしまっていいのだろうか。天国はイジワルな場所だ、と女は思った。夫は小説を書いていなかった。

 女は同室の若い女と友達になった。彼女も天国に興味がなかったらしい。昔、自分から恋人をふったことを後悔してるのだと言っていた。
「青彦っていうの。だから青いマフラーを編んであげたの」

 二人の女は想う相手が異性に触れるたびに「もう!」と声を出していたが、いつしか生きていてくれればよくなった。夜明け頃そっと寝顔をみる。その数秒しかモニターを見なくなった。夫が小説を書いたことも、青彦が宛先なしの手紙を書き始めたことも二人は知らなかった。

「小説を朗読したい」「手紙を届けたい」ニコリともせず言い放つ男たちがエンマ氏の前に現れたのは女が死んで数十年後である。エンマ氏は二人を凄まじく睨みつけて、大笑いした。
列車は東京駅に似た場所で一時停車した。車内にはあの機関士と少年、それに紙の束を抱えた二人の男が乗っていた。

「待合室の二人を呼んでくる」

駆け出す若い機関士を男たちは呆然と見送った。少年はいつまでもけん玉を続けている。



Copyright © 2010 宇加谷 研一郎 / 編集: 短編