第84期 #13
母は眉根を寄せて、堅く閉ざされた襖を見つめていた。橙や黄色、焦茶の紅葉が揺蕩い、小川の水面を彩っている。だがその流れは、母の眼には映ってはいまい。へたり込むように坐し、だらりと下がった左掌の指で、畳のささくれを弄んでいる。
すう、と二十センチほど襖が開く。そこから顔の右半分だけを覗かせた伯母が眼の前の母に、「ごめんねえ、けいちゃん、まだやわ」と声を潜めて笑った。
母も「へえ」と釣られて笑みを浮かべたが、瞬時にそれを畳んで首を垂れた。断たれた小川の流れが、母のうなじ越しに再び結ばれる。
「どうなん、まだなん」
私が問うと、母は虚脱した背筋を即座に律し、「孝雄、そんな言い方はいかん」と窘めて立ち上がると、客間として宛がわれた八畳間を出、水屋へと消えた。
「怒られとる」
上体を捻って振り返ると、縁側に面したガラス障子を全開にし、桐箪笥に凭れた体に夜気を浴びせながら、宗次郎が嗤っていた。
私より一つ上の宗次郎はS県の私立高校に通う三年生で、恐らく私達と同じく伯母夫婦に呼ばれたに違いなかった。こうして逢うのも十年振りになる。
彼の伸ばした膝の上には、カバーの外された文庫本が伏せ置かれていた。
「何読んでん」
「推理もん」
私が野球部の練習を終えて帰宅すると、受話器を握り締める母の、白濁していくかのような相槌が聞こえてきた。
「きね婆ちゃんが危篤なんやと」
母は面倒がる私を急き立てて、車の助手席へと押し込んだ。
祖母の家は、私宅から車で三時間程かかる。母の横顔を見ながら、何故この人は他人の親の死に目に逢おうと急いているのか、と不思議に思った。それも、十五年も前に自ら他人へと成り果て、死後の便りで私達の日常に小さく深い傷をつけた男の。祖母と言っても一二度会ったぐらいで、向こうは大層可愛がってくれたか知らないが、私からすれば記憶の澱程度の、過去の欠片でしかなかった。だがハンドルを握る母の両掌の皮は、白く強張っていた。呼び鈴を何度も押し、駆け出た伯母に状況を訊くと、母は「間に合うた」と大きく息をついた。
「今、怪しいと言われとった男が殺されてよう」
宗次郎の言葉に、水屋から漏れ入る、湯呑み達の搗ち合う微かな音が重なる。母は盆に急須と七つ程の湯呑みを載せて、襖の向こうへと渡った。
八畳間を横切る際、母は私に一瞥呉れた。その意味を図りかねていると、縁側に穿たれた闇が、私の倦みを一層底深いものにした。