第82期 #38
きっと幻覚だろうなと僕は思った。
「あたし、雨が好き」
赤い傘の下から、そいつは小さな顔を覗かせて言った。
「だってお気に入りの傘さしてね、ピカピカの長靴はいたらね、あたし何だってヘッチャラなの!」
ここは間違いなく、カラカラに乾燥した砂漠の真ん中だった。
「ねえ君……」僕は、砂漠の真ん中で赤い傘を差したそいつに言った。「水持ってないかな? 僕、もう三日も水を飲んでないんだよ」
「水?」そいつは不思議そうな顔をしながら僕を見た。「空に向かって口を開けてみたら? そこらじゅうに雨が降ってるでしょ」
僕は空を見上げた。まるで青ペンキで塗りつぶしたような平べったい空が、どこまでも広がっいた。
「そうだね……」僕は砂に埋もれかけた足元を見ながら言った。「君はやっぱり幻なんだね」
「マボロシってなあに?」
「夢みたいなものさ」
「夢ってすてき……」
僕は乾いた砂の上に腰を下ろすと、死んだようにうなだれた。そいつは赤い傘を差して歩き回ったり、砂に絵を描いたりして遊んでる。
「♪おこりんぼうのゴリラさん だけど猫にはやさしくて そっと頭をなでました♪」
ふと遠くに目をやると、空が黄色く濁っているのが見えた。
砂嵐だった。
「♪猫はきまぐれ、たそがれて ゴリラにさよならいいました♪……」
僕はそいつの手を引っ張り、窪んだ場所を見つけて身をひそめた。
「ねえ、かくれんぼしてるの?」とそいつは僕に尋ねた。「鬼はだれ?」
「鬼なんていないよ。でも、色んなものから逃げなくちゃならないんだ――くだらないゲームが、終わるまでは」
僕たちの頭上で砂嵐が狂ったように吹き荒れた。そいつの赤い傘は、まるで木の葉のように空へと吸い込まれていった……。
嵐が去ると、また青ペンキの空が広がった。赤い傘はもうどこにも見当たらなかった。
そいつは急に泣き出した。
「だってね、傘なくしたらね、母さんきっと悲しい顔するもん……」
僕たちは赤い傘を探してそこら中を歩き回った。
砂漠の地平線に日が落ちる頃、砂から突き出した傘の柄を見つけた。僕は砂に埋まった傘を堀り出し、壊れていないか具合を確かめた。
「大丈夫みたいだ」僕はそいつに傘を渡した。「穴一つ空いてないよ」
夕日に照らされた砂漠には、僕とそいつの影がどこまでも長く伸びていた。
「もう帰らなくちゃ」そいつは傘を閉じて言った。「さようなら、マボロシさん。早く夢から醒めるといいね」