第80期 #32
翼の夢を見る。この背中に、鳥のような翼がついたり、虫のような羽がついたり、ジェット飛行機のような翼とエンジンがついたり、非科学的な翼の骨状の噴射装置がついたりして、それで地から浮かぶ。どこからどこへ行くわけでもない。ただ浮かぶだけの夢。
実際にそんなもので飛べるはずはない。翼をつけたところで、人間は自力で空を飛べるほど強くもなく、軽くもない。人間は、軽くはないのだ。地に足を着けて生きている人間は、それだけ地上の事象に地に支えられ、縛られている。砂塵が舞い、轟音に揺れるこの地上こそが、現の世界。
働くことが虚しくなって、仕事を辞めた。地を覆う砂塵と轟音に耐えられず、そのまま職に就かなかった。少々の蓄えができていたので当座に窮することはなく、必要がないので何もやる気が起きなかった。暇に飽かしてテレビを見たり、本を読んだり、出かけたりもした。しかしそれもそれだけだった。どこにいても何をしても、ただ虚しかった。
昼夜構わず眠くなったときに眠り、目が覚めて憶えている夢は翼の夢ばかりだった。翼の力で地から足が離れる。その先に別の地や空があるわけでもなく、立っていた地にすら何かがあるわけではない。何もないのではないのかもしれない。しかし何があってもなくても、虚しいだけであることに変わりはないのだ。
空を飛びたいと思うことはない。しかし飛べるだろうかと思うことは、よくある。虚しい地から、どこかへ。しかし足が地に着いている限りどこに行っても何をしても同じで、どこにも行かず何もしないことと同じだ。出かけることも止めた。本を読むことも、テレビを見ることも止めた。何もかもが意識をただ素通りしていく中、次第に足が地に着いている感覚さえも霞んでしまうようになった。見る夢は翼の夢ばかりだった。
思考を働かせることも虚しくなって、次第に五感が受け付けたものを認識することさえも省くようになった。目に映ってもそれを見ず、耳に入ってもそれを聞かず、何があってもなくてももう同じことだった。足を着けて立つ地もその上に広がる空も、夢も現実ももうなかった。それでも翼のイメージだけは、あった。
やがて認識が消えて感覚も失われ、翼のイメージだけがすべてとなったとき、それがどんな翼であるかはわからなかったが、今までになかった感覚を、体が浮遊感に包まれる感覚を、確かに覚えた。飛んだ、と思った。虚しさは、もうなかった。